寛容と慈愛が招いた教会の“戸惑い" --- 長谷川 良

アゴラ

世界に12億人以上の信者を有するローマ・カトリック教会は10月5日から10月19日、特別世界司教会議(シノドス)を開催し、「福音宣教からみた家庭司牧の挑戦」という標題を掲げ、家庭問題について集中的協議を行い、最終報告書を賛成多数の支持を得て採択した。同報告書は来年10月開催予定の通常シノドスの協議のたたき台となる。


世界から191カ国の司教会議議長、専門家たちが2週間、「オープンな雰囲気で話し合われた」テーマは離婚、再婚者への聖体拝領問題、同性婚、純潔、避妊などだ。特に、離婚・再婚者の聖体拝領問題と同性婚に対する教会の姿勢については、高位聖職者の間で最後まで意見が分かれたという。

離婚・再婚者への聖体拝領を認めるかどうかは、来年10月まで協議を重ねていくことになった。継続審議だ。同性愛者問題は、中間報告書の段階では「兄弟姉妹として同性愛者を迎える」という声が強かったが、最終報告書ではそれらのパラグラフは見つからなかった。そのため、欧米メディアは「保守派勢力が巻き返しを図った結果」と分析し、フランシスコ法王が進める教会刷新は後退を余儀なくされたと解説する記事が多く見られた。

シノドスの報告書のまとめ役だった3人の枢機卿は18日、記者会見を開き、そこで最終報告書の概要を説明した。枢機卿たちは、「教会は全ての人々に開かれた家だ。キリスト者たちは自分の教会が常に開かれて、誰をも排除しない家であることを願っている」と述べ、同性愛者に対しても、「教会は彼らを歓迎する」と答えている。ここで注意しなければならない点は「歓迎する」とは、同性愛者を容認することを意味しないことだ。真意はその逆だ。

先ず、教会の教え(ドグマ)を振り返ってみよう。再婚・離婚者の聖体拝領の是非問題について教会の答えは明らかだ。イエスが述べたように、神の名で結びつけられた者を分つことはできない。だから、聖体拝領は神の教えを破った離婚者、再婚者には本来、与えることができないのだ。

同性愛者の公認問題でも教会の教えは明らかだ。夫婦は男性と女性の間の婚姻を意味する。同性愛者は神の願いに反しているから、夫婦として認めることは出来ない。

それではなぜ、教会はここにきて教義で明確な問題を議論し、その是非を問いかけるのだろうか。その答えも明確だ。欧米社会では2組に1組の夫婦が離婚し、再婚するケースがほとんどだ。欧米では同性婚者を夫婦として公認する国が増えてきている。われわれが生きている21世紀の社会がそのようになりつつあるからだ。

教会は久しく、神の世界に閉じこもり、「カイザルのものはカイザルに」と世俗社会とは一定の距離を置いてきた。それが第2バチカン公会議後(1962~65年)、教会の近代化が促進され、開かれた教会が合言葉となってきた。そして時間の経過とともに、離婚、再婚者の聖体問題が課題となり、同性愛者に対する教会の対応が問われだしてきた。教会が「教えではこうなっている」と主張すれば済んだ時代は過ぎてしまったのだ。

信者たちの現実と教会の教えの間に乖離が広がり、信者の教会離れが急速に進んできた。そこで教会は現実問題への対応を強いられてきた。教会が選んだ解決策は「寛容と慈愛」という魔法の言葉だ。教会の教えでは絶対に受け入れられない問題についても、「寛容と慈愛」で取り組んでいこうというのだ。換言すれば、教会のポピュラリズムだ。その最先頭で走っているのが南米出身のローマ法王フランシスコだ。法王は「イエスは罪びとをも愛したように、われわれも寛容と慈愛の精神で全ての人々を迎え入れるべきだ」と、新しい宣教時代の到来を告げている。「教会は全ての人々に開かれた家」という先述した枢機卿の言葉は法王の意向を反映させているわけだ。

ところで、「開かれたハウス」にはさまざまな人々が入ってくる。離婚者、再婚者、同性愛者の人々も教会の門を叩く。教会側は「寛容」と「慈愛」で彼らを「兄弟姉妹」として迎え入れていこうと努力する。問題は、教会の教えが変わらない限り、同性愛者、離婚者は教会では“2等市民”信者の立場を味わざるを得ないことだ。一方、教会側も新しいゲストを迎え入れ戸惑いを隠せない。すなわち、両者とも幸せな状況とは言い難いわけだ。

教会の教えだけを絶対と信じることができた社会は消滅し、価値の相対主義が支配する世界が訪れてきた。ドイツの前法王べネディクト16世が恐れ、警告を発してきた世界が現実化してきたわけだ。ちなみに、教義の番人、バチカン教理省長官のゲルハルト・ミュラー枢機卿がシノドスで同性婚の承認や離婚・再婚者の聖体拝領の容認に強く反対したのは偶然ではない。ミュラー枢機卿はべネディクト16世が法王時代、ドイツから招いた聖職者だ。

フランシスコ法王は昨年11月28日、使徒的勧告「エヴァンジェリ・ガウディウム」(福音の喜び)を発表し、信仰生活の喜びを強調した。同法王は「教会の教えは今日、多くの信者たちにとって現実と生活から遠くかけ離れている。家庭の福音は負担ではなく、喜びの福音でなければならない」と主張している。

教会の教えが信者たちにとって負担ではなく、喜びとなるために教会はどうしたらいいのか……、フランシスコ法王の悩みはそこにあるわけだが、不思議な点は、教会の教えが信者たちに喜びの福音となれない理由について、法王は何も明らかにしていないことだ。

いずれにしても、シノドスで展開された議論は、改革派聖職者とそれに抵抗する保守派間の路線の戦いではない。なぜならば、大多数の聖職者は教会の教えを死守する一方、「寛容と慈愛」を取り入れていくべきだと考えているからだ。異なるのは、教会の教えと「寛容と慈愛」間の割合だけだ。ある司教は前者が、別の司教は後者の割合がより多い、といった具合だ。特別、シノドスで見られた司教たちの揺れは、教会の教えを変えず、「寛容と慈愛」を取り入れることが如何に難しい問題かがより一層明らかになったからだろう。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年10月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。