テレビは、日本語です。テレビジョンでも、TVでもなく、テレビ。ああ、テレビ。実に良い響きです。スターバックスをスタバと呼び、マクドナルドをマクドと呼び(関西だけだが)、ブラッドピットをブラピと呼ぶ。日本の芸当です。
だが、テレビという言葉は、なくなるのかもしれません。何がテレビなんだかわからなくなっているからです。
むかしテレビは茶の間にデンと構え、見ない時はレースのカーテンで覆われてあがめられていました。それが2台目、3台目と個室にも入り始め、しまいにゃケータイのワンセグでふとんの中でいじくられるようになってしまいました。
ところで以前、チャンネルは「回す」ものでしたが、いつの間にかリモコンでピッするものになり、近頃は画面をクリックするものになっています。電話もダイヤルを回したものですが、最近は番号を押すこともせず、相手の名前をひと押しです。若い連中は「回す」ことを知りません。あのガチャガチャした手触り、ジコジコ右に巻く指先の感覚を知らないのです。かわいそうなことです。
まあいい。機械としてのテレビじゃなくて、番組としてのテレビはどうでしょう。それはもうDVDも売ってるし、ユーチューブで見ることもできます。公共の電波、というやつだって、ケーブルのネットが補完しています。
茶の間の機械で、電波を受けて、放送局の番組を見る、という昭和な姿はもう失われるのかもしれません。テレビが登場するまでその位置にいたラジオは既に家から消えて、パソコンやスマホでネット経由の番組を聴く人が増えています。
テレビもそうなるのなあ。スマホで、ネット経由で、テレビ局が送る番組を見る、のが主流になるのかなぁ。でもそれは他の世界中の映像会社との競争になります。その頃にはテレビ局じゃなくて、スマート局とか映像局とか呼ばれているのかもしれません。
放送局に「局」という字が使われているのは、郵便局や電報電話局のように、地域の公共的な役割が求められているからでしょう。電報電話局はNTT民営化で支店とか営業所なんていう乾燥した名前に変わっちゃったけど、放送局は自分たちをいつまでそう呼ぼうとするかな。
でも、テレビがテレビでなくなって、何か困るかな。スマホやネットでも楽しめるようになれば利用者はうれしい。テレビ局にとっては、ネット系のエンタテイメントや世界の放送局が攻めこんできて、ピンチかもしれない。だけど、世界中がそうなるなら、日本のテレビ文化が世界のスマホに出て行けるチャンスでもあるわけで。
テレビのことを想っていて、以前にも書きましたが、14年前のことを思い出しました。
シドニー五輪。女子マラソンの号砲が鳴ったのに、当時住んでいたアメリカではテレビ中継がない。ネット中継もない。頼みの綱は、日本の新聞社のサイトでした。文字でライブ中継をしてくれていました。5分おき程度に、実況を書き込んでくれていたです。
ボストンの自宅で、パソコンの文字を読んでいました。ああニッポン女性が世界を引っ張っている。高橋尚子さんが勝つかもしれない。たまらん。涙がでる。そこで思い立ち、親戚に国際電話をかけて、「受話器をテレビの前に置いてくれ」と指示しました。
日本のテレビの実況が音で伝わってきました。回線のせいか、音がとぎれとぎれです。そのとき私は学びました。人は、大事なことを、とぎれとぎれに聞くと、異様に興奮する、ということを。高橋がんばれーっ!私はボストンからシドニーに向かって絶叫していました。
4年後、アテネ五輪。野口みずきさんが走りました。私は東京でテレビを見ていました。その後の報道によれば、高橋尚子さんはアメリカのコロラドで合宿を張っていたといいます。テレビ中継がなかったので、電話で経過を聞きながら応援したといいます。電話口で叫びながら応援したといいます。私と全く同じことをなさったのです。大興奮したといいます。
1936年、ナチスの祭典と呼ばれるベルリンオリンピック。80年近く前のこと。女子200m平泳ぎ決勝。NHK河西アナウンサーの「前畑がんばれがんばれ前畑」という絶叫を、私のおじいさんの世代はむさぼり聞いたといいます。鉱石ラジオは、とぎれとぎれだったといいます。興奮したに違いありません。
鉱石ラジオはトランジスタラジオに、そしてテレビへと進化しました。国際電話がつながるようになりました。ネットが現れ、パソコンで文字が読めるようになりました。今やスマホで世界の音声も映像も得られるようになりました。技術は、機械は、どんどん進化します。
だけど、映像がなくて音だけだったり、それもとぎれとぎれに聞こえたりすると、とても興奮する。絶叫してしまう。そんな、人と情報との関わり、目や耳と感情とのつながりというものは、80年やそこらで変わるものではありません。
いや逆に、耳をすまさなくても目をこらさなくても、トイレでも電車でも、スマホで世界のできごとが意のままに手に入れば、あんまり興奮することなんてなくなるのかもしれません。
次の東京五輪ではどうでしょう。街角の大画面を前に、みんなで大騒ぎしながら、スマホでは選手のデータをチェックする。応援メッセージを送りながら、絶叫する。東京を走るランナーたちは、みんなのメッセージをメガネディスプレイで読んでいる。そんな具合に、2020年には、新しい楽しみ方、新しい興奮が生み出されているでしょうか。
編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2014年12月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。