戦争について「反省とお詫びの気持ち」よりももっと大事なこと

倉本 圭造

(この記事は、先日の衆院選直後に、この結果に「不満」な人にも希望が持てる道筋を示そうという意図で書かれたものです。が、あまりに長くてアゴラ編集部の投稿ガイドラインに反してしまい注意を受けたので、分割して再度投稿させていただいております。毎回単体でも読めるように工夫していきます。)

前回の記事では、今回の選挙結果に対して、

A・「左翼ざまぁ!」的な凱歌を上げている人
B・「とりあえずほっとした」という人
C・「絶望した!右傾化する日本に絶望した!」

のうち、Bの人の「アベノミクスの3つ目の矢的な構造改革を真剣にやりきりたい」という願いと、Cの人の「何か全てのことがナアナアの日本的抑圧の中にいる状態を抜け出したい」という思いが、分断されたままだと結局2つとも進まない状況に陥るが、「実は似た思い」なんだという認識から連携が生まれれれば道は開けるという話をしました。

今回は、その「一致できる可能性がある部分」について、より詳しく見ていくことにします。


1・「戦後左翼の夢」と「構造改革者の夢」は実は同じ地点に着地したがっている。

私は自分のことをいわゆる「リベラル」的な人間だと思っているんですが、しかし安倍政権のことは第一期の頃から真剣に応援していて、金融緩和路線には個人的には乗り気でないものの、ある種「賭け」に出てやり始めてしまった以上、いろんな情勢的にもうこの道は突っ走るしかない、議論はあとにするしかない・・・というようなことを思っています。

でもね、こういうことをいうと、ネットとかで私の主張をほんの一部分だけ見て「お、仲間だ!」って思って近づいてきた人が、私が安倍政権支持者だと知ったら突然豹変し、「信じてたのに裏切られた」的な反応を受けることがあったりするんですよ。

「勝手に期待して勝手に裏切られないでくれよ」的な感じもしますが、そういうのは個人的にショックが大きくて、だから折にふれて「彼ら(おそらくこの記事冒頭で言う”C”のあなた)の気持ち」について色々と知ろうと努力はしています。

で、最近の「左翼論壇」的には異色のヒット作となった白井聡氏の『永続敗戦論』という本を頑張って読んだんですよね。これは結構心理的にしんどくて、細切れ時間に読んでいたこともありますが、そう長い本ではないのに1ヶ月強はかかりました。

議論の内容自体はまあ追えるんですが、最初のうちは、著者の白井氏(およびこの本に心理的にコミットしているあなた)が「何に怒って」いて「何に侮辱されたと感じて」いるのか、どうしても理解できなくて、読み進むたびに常に「読者である自分」がものすごく作者に罵倒され続けているような気持ちになっていたんですよ。

ただこの本は一般的な印象と違って、内容的にはかなり”中立的で冷静”な本だということはだんだんわかってきました。いや、全編にわたって強烈に怒っているので”冷静”とは言いがたいかもしれないが(笑)、少なくとも中立的であろうとする意志は強固にあって、決して「戦後左翼的な惰性の延長で”右”っぽいものに怨念をぶつけている」本ではないのはわかった。

要するにこう、

戦後体制が抱えている根幹的な部分で「ナアナアにする」システムがこの国には組み込まれていることに怒っていて、その根源を暴きたいと思っていて、それに「侮辱」されていると感じている

のだということに共感できてからは、一気に読めるようになって、残っていた後半半分ほどのページはあっという間に読み終えることができました。

でも、

戦後体制が抱えている根幹的な部分で「ナアナアにする」システムがこの国には組み込まれていることに怒っていて、その根源を暴きたいと思っていて、それに「侮辱」されていると感じている

っていう言い方をすると、これはあらゆる「構造改革の完遂を望んでいる人たち(この記事冒頭で言う”B”の人たち)」と同じ「気持ち」といっていいように思います。この文章↑だけをとってみれば、それがどっちのグループの気持ちを指しているのかわからなくなるぐらいですよね。

私は最近仕事で、ある「グローバル展開している日本企業」の内実に触れる機会があったんですが、その会社はビジネス書や日経新聞的には実に「日本企業のグローバル化先進事例」っぽい印象の会社にもかかわらず、その会社の海外販売子会社で働く人たちの孤立無援っぷりに涙を誘われる思いがしました。

なんかこう・・・本社側の内部都合の延長で、純粋に日本国内だけの空気の支配で出された製品ラインナップを押し付けられて、

本社・「その国で売れ」
子会社・「え?はい、まあ売れと言われりゃ売りますけど、もうちょっとラインナップごとに特徴がわかりやすくなっててくれるとこちらも展開のしようがあるかと思うんですけど・・・」
本社・「今期はこれだけの数売れ」
子会社・「・・・・わかりました」

まあ実際こういう会話をするわけではないでしょうが実質こんな感じで、「火炎瓶で戦車に立ち向かったノモンハン」とか、「食料がないから畑を作って自給自足していた南方諸島戦線」を彷彿とさせられました。(それでいてかなりの海外売上比率を維持してるところがまた旧日本軍兵士を彷彿とさせるわけですが)

01火炎瓶

この絵↑の感じなんですよね本当に。

実はこの絵↑的な状況が社会の中に発現してしまうメカニズムを全体としてコントロールできるかできないかが、戦前における近隣諸国と自国民の不幸を再現せずに住むかどうかの決定的問題なわけですよね。だからこそ、その問題のコントロールに関する現実的な社会運営テクニックの習熟こそが、「戦争責任に対する本当の反省」であるはずなんですよ。

「痛切な反省とお詫びの気持ち」なんて言葉を何億回繰り返したって、自分はなんて善人なんだろうと悦に入る効果はあるかもしれないが、再発防止には全然なりません。

元マッキンゼー日本代表の大前研一氏が最近の著書で、「昔の日本企業(彼が現役のマッキンゼーコンサルタントだった頃)には戦略を提示したら”やろう!”となってガリガリ実行する力があったが、今はそれが全然なくなってしまった」的なことを嘆いておられましたが、実際あらゆる参加者が責任逃れ的に空気を読んでいるだけで、決して横軸に連動した大きな戦略性を具現化できず、結果として末端に生きている「最前線兵士」に過剰な負担が押し付けられるという「この実に日本的な現象」は、今の日本にむしろより広がっている部分があります。

こういう状況のことを、前述の「永続敗戦論」的な立場から言うと、「無責任の体系」by丸山真男という風に言うのだろうと思います。

その「無責任の体系」の問題は、原発事故をめぐる迷走、沖縄基地問題に関する迷走・・・といった問題だけじゃなくて、現代日本の多くの企業体の内実、社会運営の内実として、どうしようも抑えられない悪癖として噴出してきています。

こういう問題を「構造改革主義者」的な論客は、「部分最適へのこだわりで全体最適が壊滅的なため、結局有効な運営が全然できない状態」というような表現をするのだと思います。

ほら、なんか「似たような問題意識」なんだな・・・って「気がしてきた」でしょう?

もちろん、近隣諸国との関係の作り方だとか、経済の運営の仕方だとか、そういう「気持ちが似てるからって目指す内容は違うんだよ」というのは重々承知しています。

しかし、「目指す社会の”感じ”」が似ているんだということは大事な発見です。日本人はたとえ「この記事冒頭の”A”の人たち」ですら、日常的にありとあらゆる部分で空気を読みまくらないといけない社会に少し疲れている部分はあるんですよ。「日本らしさ」「日本の良さ」が失われないのであれば、もっとクリアーでオープンな論理が通る社会にしたいというのは現代日本人の平均的な感覚と言って良いでしょう。

そしたら、どうしたらこの問題が乗り越えられるのか?について考えられそうな感じがしてきますね?

しかしその、”「日本らしさ」「日本の良さ」が失われないのであれば”という付帯条件が大事なんですよね。

でもそこさえ担保できるのならば・・・という視点で考えてみると、これは「全く違う立場」ではなくて、「どうやって段階的に移行させていくのか」という技術論的な話なのだという気が・・・してきませんか?

とりあえず「気がしてきた」程度でいいので、そういう気分のまま次回をお読みください。

ほぼ毎日不定期に更新していく予定ですが、連載形式だと半月ぐらいかかるので、一気読みされたい方は、私のブログ↓でどうぞ。
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倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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