「神は女性だ」は間違っていない --- 長谷川 良

アゴラ

バチカン法王庁によると、クリスマスの12月25日、サンピエトロ広場でウクライナの女性が裸の胸に「神は女性だ」と書いて叫び、公共わいせつの疑いで一時、拘束されたという。女性はフランスの女性の権利を訴えているグループ「フェメン」のメンバーだった。同グループは、カトリック教会が中絶を禁止しているとして抗議している。以上、読売新聞電子版から紹介した。


ところで、ウクライナ女性の主張「神は女性だ」は決して間違っていない。もう少し積極的に表現すれば、正しいのだ。ただし、それは真理の半分を表現しているだけだ。「神は男性だ」と主張する男性が出てくれば、同じように「正しい」と言わざるを得ないからだ。

旧約聖書の「創世記」には、「神は自分の似姿に人を創造した、すなわち、男と女とに創造した」と記述されている。すなわち、神は男と女の2性を有している、というのだ。だから、ウクライナ女性の「神は女性だ」は立派な答えだが、満点ではないのだ。バチカン関係者が拘束したウクライナ女性に創世記を説明すれば、女性は必ず納得できるはずだ。裸の胸に描いてまで叫ぶことではないのだ。

問題は「女性の権利尊重」だろう。その観点からみると、「女性の権利」は常に蹂躙されてきた。ウクライナ女性の「神は女性だ」と叫びたくなる心情は分からなくはない。神は男性だけではなく、女性でもあるからだ。

特に、神を教えるキリスト教会で長い間、女性の権利は蹂躙されてきた。女性に自動車の運転を禁止するサウジアラビアを批判する権利をバチカンは有していない。

当方はこのコラム欄で「なぜ、教会は女性を軽視するか」2013年3月4日参考)を書いた。そこでカトリック教会の「男尊女卑」の流れは、旧約聖書創世記2章22節の「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り……」から由来していると述べた。

聖書では「人」は通常「男」を意味し、その「男」(アダム)のあばら骨から女(エバ)を造ったということから、女は男の付属品のように理解されてきた面があるわけだ。

女性蔑視の思想は中世時代に入ると、「神学大全」の著者のトーマス・フォン・アクィナス(1225~1274年)に一層明確になる。アクィナスは「女の創造は自然界の失策だ」と言い切っている。現代のフェミニストが聞けば、真っ青になるような暴言だ。女性蔑視は魔女狩りをも生み出し、「女に悪魔が憑いた」ということで多くの女性が殺されていった。

キリスト教会の女性蔑視思想の背景には、人類の原罪がルーシエルに誘惑されたエバからアダムに伝達された、という失楽園の話があるからだろう。換言すれば、エバが初めに罪を犯し、アダムがそれを継承した。失楽園の話を信じるキリスト教会は「罪は女性から発生した」と主張してきたわけだ。

「女性の権利」回復運動で歴史的成果はやはり「聖母マリア無原罪説」が教会の教義(ドグマ)となったことだろう。第255代法王のピウス9世(在位1846~1878年)は1854年、「マリアは胎内の時から原罪から解放されていた」と宣言したのだ。女性が原罪から解放され、神に復帰する道が開かれた瞬間だ。ウーマンリブ史上最大の成果といっても言い過ぎではないだろう。

繰り返すが、ウクライナ女性の「神は女性だ」は暴論ではなく、神学的根拠のある主張なのだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年12月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。