国家という枠組み --- 井本 省吾

アゴラ

昨日のブログ「人質事件をめぐる建前と本音」で、誤解されないために以下のように補足したい。というのも、日本社会では「建前」という言葉は、「形骸化しており、実はない。実際は本音で行動する」いったニュアンスで受け取られがちだからだ。


最後のくだりで「国家の建前を堅持しつつ……」と書いたように、私は国家の建前を尊重すべきだと考えている。その上での水面下の身代金交渉を進めると言っているのであって、建前の方がホンネよりも価値は上でなければならない。

形骸化した虚像としての建前であってはならない。私が憲法改正の必要性を重視するのも、この点にある。以前紹介した福田恆存氏の「人間不在の防衛論議」は、この点について次のように書いている。

<自分も人間も放つておけばどうにも手に負へない代物であり、てんでんばらばらな個人の欲望を適度に抑へ、それぞれの衝突から生ずる混乱を何とか纏めて行くためには国家の枠が必要であり、(統治者の欲望と統治される国民の欲望の衝突を)規制するために法が必要と考える>

国家の枠とそれによる法律が建前である。それなくして秩序ある社会を築けず、国家は混乱してしまうからだ。

<一般の日本人は、自分の子供が戦争に駆り立てられ、殺されるのが厭だからと言つて、戦争に反対し、軍隊に反発し、徴兵制度を否定する>

これはホンネである。「身代金を払って人質になった国民を救出せよ。建前に囚われるな」という論理だ。だが、ホンネだけで行動していては国家は成り立たず、多くの国民の安全は保てない。だから、国家の枠組みを保つのである。その枠組みを福田氏はフィクションという。

しかし、福田氏はホンネに動く人々の心理を見透かすように、こうも書いている。

<(成熟した国民は)国家というフィクションを成り立たせるためには子供が戦場に駆り立てられるのも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとしてとして認める。が、彼にも感情はある、自分の子供だけは徴兵されないやうに小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる>

「人間の本性」を見極め、柔軟に許容する近代人、福田恆存の姿がそこにある。

入社試験は公明正大でなければならない。普通の人間はそう考えている。だが、親の立場になると、自分の子供は偏差値が低いものの(否、それだからこそ)少しでも安定した大企業に入社させたいと考える。で、建前を尊重しながらも水面下で企業の有力幹部に働きかけて、狭き門をくぐる策を探る。 

<「父親」の人格の中には国民としての仮面と親としての仮面と二つあり
……その仮面の使い分けを一つの完成した統一体として為し得るものが人格なのである>

成熟した近代人としては、まず建前としての国家の枠組みを尊重しなければならない。


編集部より:この記事は井本省吾氏のブログ「鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌」2015年1月23日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった井本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌をご覧ください。