「翼賛体制の構築に抗する」という声明が発表された。記者会見で「報道機関が政権批判を自粛している」と主張したのが、報道ステーションで「安倍首相は空爆したがっている」とか「テロリストと仲よくしよう」などと激しく政権を批判した古賀茂明氏だというのは悪い冗談だろう。
自粛は、意識的に「構築」されるものではない。丸山眞男は「自粛の全体主義のさなかに」と題した1988年の座談会で、昭和天皇の病状をめぐる報道の自粛を戦前と比較して、本質は変わっていないと指摘し、「マスコミが病状を事細かに伝える点は戦前よりひどくなった」といっている。
88年9月に天皇が吐血したとき、NHKが早まって「危篤」の態勢を組み、橋本大二郎氏が毎日、病状を報告することになった。皇居の前にテント村ができ、そのコストは毎日2000万円ともいわれた。当初は崩御も間近いと思われたが、全量輸血するなどの治療をすれば延命はできる。みんなおかしいと思ったが、「態勢を縮小しよう」とは言い出せず、「ベタ張り」が冬の最中に4ヶ月近く続き、カメラマンには死人も出た。
今そのときとよく似ているのは、原発報道だ。福島では放射能による死者は出ていないが、マスコミのあおる恐怖で、仮設住宅から17万人が帰宅できない。JBpressにも書いたように、原発を止めろという行政命令は一度も出ていないのに、なぜか全国の原発が止まっている。法律家の意見は(反原発派でさえ)法的根拠がないという点で一致しているが、それを報じる新聞は一つもない。産経新聞でさえ、私に取材して没にした。
電力会社もこの自粛ムードに遠慮して、原子力規制委員会に反論できない。行政訴訟を起こすべきだというと、「訴訟に勝っても地元が反発して、かえって時間がかかる」。財界でも「客商売の会社は原子力に口を出せない」という。戦前の「国体」と同じように、原子力がタブーになっているのだ。
こういう自粛ムードを作り出しているのが、今回の「翼賛体制」のアピールに署名している人々だ。彼らが反原発派と重なるのは、偶然ではない。戦前の右翼も、こういうヒステリックな示威運動でマスコミを脅したのだ。結果に責任をもたない人々の感情論は、右も左も同じである。
安倍政権の人質事件への対応は評価できるが、原子力行政は0点である。原発が止まったままで、電力自由化も発送電分離もありえない。戦前も、このように脱線した状態を既成事実として弥縫策を考える前例主義で脱線が増幅され、破局に突入したのだ。日本人が直さなければならない最大の病は、丸山が70年前に指摘した、この責任不在の意思決定である。