秩序ある自由

岡本 裕明

電車をホームで待つ時、所定の位置で行列をし、電車が来れば降りる人が先で乗る人は前に並んだ人から順番に乗ることは当たり前です。ラーメン屋で腹が減ったから自分の分だけ先に作ってくれと頼んでも聞き入れられることはありません。これは人が秩序と道徳観で行動を抑制しているからであります。


アメリカでは法律という名の下、様々なルールが決められているのは移民国家であると同時に教育水準や立場の違い、更に広大な国土の中で住む場所によりその特性が出やすい為、国家としての一定のコントロールを図り、真の意味での平等を作り出すためであります。法律が人を縛り、人は枠からはみ出ないようにしているともいえます。時としてその法律の盲点をくぐり、記載されていないことをすれば行動した本人は「書いていないからやった」と言い、法律家はそれならば新たにこの点も補足しなくてはいけないと法律が改定されていきます。結果としてどうなったかといえば人間生活は極めてルールが厳しく、複雑化し、全ての内容を周知することすらできなくなりつつあります。

クルマを運転する際のルール、確定申告に相続のルール、会社のセキュリティカードのルール、マンションの管理組合のルール…と世の中、ルールだらけであるとも言えるのです。

私のカナダの会社の就業規則にはカンパニールールとして就業中してはいけないことが羅列されています。この就業規則は会社の顧問弁護士が作ったものですが、見るたびに27項目にわたる「やってはいけないこと」をよく思いつたな、と感心するやら頭を悩ませるやらであります。就業中寝てはいけません、会社の悪口は言ってはいけません、身だしなみはきれいにすること…などは中学校の生徒手帳に書いてある内容と大差ありませんが、弁護士曰く、「書かなければやってもよいと付け込まれる」と強く主張します。

私の知り合いでこんな秩序と制御ばかりの人生は嫌だ、と思い立ったようにそれまで勤務した会社を辞め、奥様と幼い子と3人で自給自足の暮らしができるとされるカナダのある島に移住してしまいました。島に行ってしまってからはネット情報にも支配されたくないからか、連絡が途絶えていますが、完全自給自足の生活など有り得ません。噂で聞いた話ではそこでは物々交換や各自の能力を生かして共存共栄だと理解しています。それならば多くの若者が村から飛び出した集落民の付き合いの濃さを再現しているようなものでしょう。現代社会よりなおルールを守らなくてはいけない社会に戻ったわけで、彼はほんとうにエンジョイしているのだろうかとふと心配になってしまいます。

パリなどで起きた表現の自由を背景にした事件は100年前なら起きなかった事件かもしれません。それは人と人の結びつきが強く、道徳観による支配構造がワークしていたからではないでしょうか?それに住む世界ももっと狭かったし人々の移動も限られています。情報はもっと少なかった訳ですからもっと人々は鷹揚だったような気がします。

私は幼いころに「人への迷惑をかけるな」、と常々言われて育ったのですが、それは多くの日本人が集落、学校、会社といった所属意識の中で活動し続けているからであります。先日、シリアに渡航しようとした日本人がパスポートを没収された事件がありました。憲法で保障された自由を盾に息巻いているその人の言動に違和感を感じたのはその人が無人島で一人で暮らすわけでもなく、一国の主としてルール制定者であるわけでもないのに自由を振りかざすその傍若無人ぶりだからであります。

我々は基本的に自由であります。しかし、それはルールの中での自由であるという事を忘れてはいけません。ルールに記載されていなければ何をしてもよいかといえばアメリカ人ならそうするかもしれないですがそのあと更に縛りの厳しいルールができるだけでしょう。一方、イギリスには社会道徳が根強く存在します。一定教育を受けた人であればしてよいこと、いけないことの判別ぐらいつくであろう、という背景であります。

ふと思うことはルールだらけの世の中だから人々はストレスを溜めてしまっているのかもしれず、私の知り合いのように突如社会生活からリタイアしてしまう人も珍しくないのかもしれません。これは誰を責めるというよりある一面、居心地がとても悪くなった現代社会の一面でもある、とも言えそうです。

今日はこのぐらいにしておきましょう。

岡本裕明 ブログ外から見る日本 見られる日本人 2月22日付より