問題は「押しつけ」ではない 『平和憲法の深層』

平和憲法の深層 (ちくま新書)
古関 彰一
筑摩書房
★★★☆☆



憲法記念日が近づくと、毎年同じ論争が繰り返されるが、日本国憲法がGHQの占領下で制定されたという意味で「押しつけ」だったことには疑問の余地がない。問題は、それが当時の日本国民の意に反する憲法だったのかということだ。

「押しつけ」論の論拠になっているのは、1946年2月に日本側の出した改正案(いわゆる松本案)がマッカーサーに一蹴され、彼の「3原則」をもとにしてGHQ民政局が1週間で憲法草案を書いたという経緯だが、このとき最大の焦点だったのは天皇の地位だった。

マッカーサーが憲法制定を急いだのは、5月から始まる東京裁判で昭和天皇の戦争責任を追及する声が強まっていたためだ。明治憲法に毛の生えたような改正案を出したら天皇の起訴もありうる、とマッカーサーは考え、そうなると「大騒乱が起こり、100万の軍隊を派遣する必要が生じるだろう」とアイゼンハワーに報告した。

第9条の平和主義には、日本側からも異論が出なかった。マッカーサーの3原則には「自己の安全を保持する戦争も放棄する」と明記されていた。日本側の中心となった宮沢俊義は国連を中心とする「平和国家」の理想を掲げ、吉田首相は「自衛戦争も放棄する」と国会で答弁した。いわゆる芦田修正論は、後になって考えたこじつけだ。

つまり押しつけられたのは象徴天皇制であり、第9条の平和主義ではなかったのだ。それは米ソが協調して日本やドイツを無力化してしまえば、もう世界大戦は起こらず、国連が国際紛争を調停するだろうという楽観論によるものだった。憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」理想がうたい上げられている。

ところが憲法制定の直後から、冷戦が始まった。第9条の理想は、戦後わずか数年で崩れ去ったのだが、吉田茂は改正を拒否して日米同盟にただ乗りした。その後の自民党政権も改正できず、冷戦に対応できない「平和憲法」を変えられないまま冷戦が終わり、憲法は2周遅れになってしまった。

核兵器が新興国にも拡散する一方、紛争の大部分はゲリラ戦やテロになり、民間軍事会社など「国家の交戦権」でコントロールできない紛争が増えた。これから憲法を改正するなら、こうした戦争の概念の変化を踏まえ、国連の警察機能の強化など主権国家の限界を超える改革が必要だろう。

本書は憲法制定の経緯については詳細に書いているが、時代遅れの平和憲法を美化する論調には賛成できない。