本書の史実にはいろいろ誤りが指摘されているが、発想はおもしろい。明治維新の実態は、長州の狂信的なテロリストが尊王攘夷というカルト思想にもとづいて徳川幕府を倒した内戦だった。「明治維新」という言葉も同時代にはなく、「昭和維新」のテロリストたちが使い始めたものだ。
その教祖とされる吉田松陰が、松下村塾を開いて「明治の元勲」を教育したというのも神話である。1842年に松下村塾を開いたのは玉木文之進で、松蔭は1857年にその塾頭となったが、翌年投獄されたので塾は廃止された。だから彼が塾の指導者だったのは1年余りで、彼が直接教育した著名人は高杉晋作と久坂玄瑞ぐらいだが、久坂が松蔭を尊王思想の教祖にまつり上げたのだ。
「維新」や「攘夷」という言葉は松蔭のオリジナルではなく、水戸学の受け売りである。この始祖は「水戸黄門」として有名な徳川光圀だが、彼は地元では暴君として知られていた。日本の歴史をすべて天皇中心に書き換える『大日本史』という無意味な大事業に財政の大部分を費やし、増税や飢饉で水戸藩では大量の餓死者が出た。
もっと大きな弊害は、水戸学というカルトが倒幕運動に利用されたことだ。これは陽明学と国学を混ぜた「日本が世界の中心で天皇がその王である」という誇大妄想で、天皇家の正統性を簒奪した徳川幕府を倒し、日本を天皇中心の統一国家にするために(対外的・対内的な)戦争をせよという思想だった。
水戸学の過激派だった「天狗党」は、この教えの通り水戸藩と戦ったので、この内ゲバで水戸学の主要メンバーは死んでしまい、明治政権には一人も入れなかった。その代わり水戸学のエピゴーネンだった長州の尊王攘夷派が、政権を支配した。彼らは松蔭の「日本がアジアを支配する」という攘夷思想を実行したので、その後の戦争は明治維新の必然的な結果だったという。
ただし維新が「過ち」だったというのは言い過ぎで、こういうテロリストやカルト思想がなかったら、あそこまでの大改革はできなかっただろう。ルソーの思想は正体不明の「一般意志」がすべてを決定するという不合理なカルトだが、軍事的には圧倒的に優勢なブルボン家に対して革命を起こすことは、合理主義者にはできない。
むしろ驚くべきなのは、フランス革命が200万人(その後のナポレオン戦争を含めると490万人)もの死者を出したのに対して、戊辰戦争の死者はわずか1万5000人、西南戦争まで入れても3万人で革命が収束したことだ。これはよくも悪くも政権が長州閥で統合され、山県有朋などの「元勲」の威光が超法規的な権威をもったからだ。
福沢諭吉は西郷隆盛を評価し、「士道」によるエリート支配が必要だと論じた。彼らはもとは公武合体論で、フランス革命でいえば穏健派のジロンド党だった。幕府を倒したのは長州のジャコバン党だが、彼らがその後も尊王攘夷を実行していたら、フランス革命のような血の雨が降っただろう。
本書は水戸学の影響をよくも悪くも過大評価しているが、長州にはその難解な教義を理解できた武士はほとんどいなかった。薩摩には「尊王」はあったが「攘夷」はなかった。長州武士の不合理なエネルギーの源泉は、関ヶ原合戦で敗れてから領地を大幅に縮小して山口県の片隅に押し込められ、250年も冷や飯を食わされたルサンチマンだったのではないか。