嗚呼、大阪都構想

橋下徹が敗れた!

私は大阪とは縁もゆかりもないのでとやかく言う立場にありません。まさに「外から見る大阪」でありますが、橋下氏は大阪を変えようとしました。が、府民からは勝手に変えられては困るというボイスがありました。東京とは違う文化社会環境の中、都構想を背負い、橋下氏は体を張って何がダメでどうすべきかという指針を出してきました。


維新も石原さんと別れてからは地方政党色がより一層強くなり、大阪の為の政党と言っても過言はなかったと思いますが、気持ちは全国の中の大阪であったところで出発点が違ったのかもしれません。

日本が縦長の地形のみならず、縄文弥生という文化的相違からスタートし、長い日本の歴史の中で各地方で独特の社会が生み出されました。

瀬戸内海に面している大阪は都があった京都との関係のなかで明白なポジションを作り出してきました。それは戦後に於いても例えば船場をテーマにした小説が数多く世に出ましたが、それ程ほかの街にはないユニークさがあるともいえるのです。あれほど近い京都とは文化が全く違うし、神戸はまた別のテイストを持っています。国内転勤で大阪に赴任する関東人は大阪弁をぺらぺらと操らないと営業できないと嘆きます。大阪はソトモノ意識が強いのです。橋下氏はその中で東京都のような都構想を導入することで行政の非効率性を改めようとしました。

もしも橋下氏が敗れたその理由を述べよと言われたら私なら数ある理由の中で氏が日本を一括りの同じ民族と考えたから、と答えるでしょう。それ故、東京と同様の効率システムを取り入れるのだと思った節はあります。

私は日本という国を外から見るまでこれほど厄介で価値観がバラバラだとはずっと気がつきませんでした。しかし、北海道の文化は本土とはまるで違います。東北の地味さも日本独特ですが岩手、宮城という太平洋側と秋田、新潟とも違います。太平洋と日本海に面している青森は東北文化のテイストを代表しているかもしれません。福島県は仙台を擁する宮城と東京に近い栃木の間に挟まれて地味な県民性を作り上げました。あの県は本来なら力のあった会津を重視すべきだったのですが、それをしなかったことが失敗の一因のように思えます。国内の文化的違いの話をしだすと終わらなくなるのでこのあたりで止めておきますがそれほど日本は地方ごとの色彩が強いのです。

日本を何分割化して北米の州の様に自治権を付与して統治するという発想があります。何故分割しなくてはいけないのか、地理的要素も含め、中央集権では一定水準に達した国民の効用を高められなくなったからでありましょう。しかし、道州制ではワークしないと思っています。なぜなら日本にはかつて藩の数が200以上あり、お隣の藩とすら必ずしも仲良しではなかったからであります。

橋下市長の挑戦は大阪の中にある藩を一まとめにしてもう一度再配分するという事だったかと思います。論理的な発想だと思いますが人間の心はそう簡単に割り切れるものではなく、人によっては新しいものにも挑戦もしたがらず、懐古主義もありましょう。日本の歴史の中でもっとも脂っこかった廃藩置県的な改革を彼は急ぎ過ぎたと思っています。府民になるほどと思わせるような改革をもう少し、いくつか進めながら10年か20年かけてやるぐらいの課題だったと思います。

但し、私は橋下市長が行ったチャレンジは大いに評価しています。自分のすべてを賭けてここまで戦ったことには拍手したいと思います。年末の市長の任期満了でお辞めになることも潔いと思います。結構です。

私は維新の存在意義と橋下氏が府知事になった2008年から今日に至る議論が元の木阿弥にならないことだけを祈っています。都構想が無くなった途端に時代が2008年に戻ったとしたら大阪の将来はありません。少なくとも橋下氏のブラッドを次いでその本質をきちんと捉えたうえ改革を続けなくては大阪は日本の第二の都市としての繁栄は続かないでしょう。

それから橋下氏は個性の塊でした。日本で出る杭は打たれるとされる中で彼は打たれ続け、それでも立ち上がり、最後の勝負に出たわけです。反対70.5万、賛成69.4万を単純に比率だけで見ると賛成が49.6%となります。よく言われるのは49人反対しても51人賛成すれば民主主義の社会では勝利である、と言います。この数字はあまりにも惜しいと思います。あと0.5%覆れば彼は勝てたのですから。

ヒーローという名に手が届かず日本の歴史に残れなかったのは残念ですが、彼の勇気は大いにたたえるべきでしょう。

今日はこのぐらいにしておきましょう。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本 見られる日本人 5月18日付より