「シルバーデモクラシー」という言葉はやめよう

大阪都構想をめぐる議論が続いているが、「シルバーデモクラシー」という言葉が混乱の原因になっている。これは正式の定義があるわけではないが、普通は「老人が多数派になり、投票率が高く、農村部の定数が多いために過剰代表される」という意味に使われる。


中嶋さんの「橋下市長の敗因は『シルバーデモクラシー』ではない」という記事は、これを「高齢者が多い」というだけの話に矮小化して否定している。今回は高齢者の投票率がかなり高いと推定され、おときたさんのいうようにこれは自然な現象だ。老人が自分の利益に従って行動するのは当然であり、それが多数なら彼らの意思が政策に反映するのも当然だ。

要するに「シルバーデモクラシー」という特別なものはなく、これはデモクラシー(特に普通選挙)そのものの歪みなのだ。歴史的には、デモクラシー(民衆支配)という言葉がいい意味で使われたことは少ない。以前の記事にも書いたように、普通選挙のあとファシズムが出てきた原因も、このようなデモクラシーの歪みが大きくなったためだ。

普通選挙は「代表者が民意を正確に代表する」という仮定にもとづいているが、この仮定が正しい保証はない。たとえば「自衛隊の基地をあなたの町に建設するのに賛成か反対か」を地元の住民投票で決めたら、基地はどこにもつくれない。ここでは国民の安全保障よりも地元住民の利益が代表されるからだ。代表者と代表されるべき者が正確に対応しないことがデモクラシーの第一の問題である。

もう一つは、有権者が自分の利益を正しく理解しているとは限らないことだ。たとえばナチスは普通選挙で第一党になって政権を取った。日本でも1941年12月に「日米開戦すべきか」の国民投票をしたら、圧倒的多数が賛成しただろう。

戦後のほとんどの時期に自民党が政権についてきたのも、国民がそれを選んだからだが、自民党がすばらしい政党だと思う国民はほとんどいないだろう。デモクラシーで正しい選択が行なわれる保証はないが、「自分たちが決めたのだからしょうがない」とあきらめる理由にはなる。それがデモクラシーの安定している理由である。

だから今問われているのは「シルバーデモクラシー」ではない。急速な高齢化で税金を使う人が払う人より多くなったとき、使う人の意思だけで財政を決めてもいいのか。いま税金を払うのがいやな人は(選挙権のない)未来の納税者に負担を押しつけてもいいのか――といったデモクラシーの原理が問われているのである。