「写真」の思い出と友人の話 --- 長谷川 良

2015年06月02日 11:54

6月1日は「写真の日」だった。公益社団法人日本写真協会によると、「1951(昭和26)年に、写真の日制定委員会(梅本貞雄ら)を開き、6月1日を『写真の日』と制定し今日に至っている」という。今年で64年目の「写真の日」だったわけだ。


日本写真協会のHPによると、「日本に写真が渡来したのは嘉永年間とされ、最初にダゲレオタイプ(銀板写真)の撮影が成功したのは、1857(安政4)年9月17日に、薩摩藩士の市来四郎、宇宿彦右衛門らが藩主島津斉彬を撮影したもので、現在鹿児島の尚古集成館に保存されている」という。

当方はカメラマンでないうえ、目が余り良くないのでシャッターを切るまで時間がかかる。だからというわけではないが、自慢できる写真は余り多くない。それでも、記憶に残る写真は数枚ある。

一枚は巨人の王貞治選手が1977年ホームランの世界記録(756本)を達成した瞬間を撮った写真だ。スポーツ記者だった当方は一塁側に陣取って、その瞬間を待っていた。王選手がバットを振った。当方はカメラの自動シャッターを押し続けた。幸い、その中に一枚、歴史的な瞬間を捉えた写真があったので、デスクがその写真を掲載してくれた。自動シャッターでなかったならば、到底、瞬間を撮る離れ業は当方にはできなかった。駅伝のゴールの瞬間もその自動シャッターのおかげでランナーがテープを切った瞬間を撮ったことがある。

記憶に残るもう一枚は、冷戦時代の終焉を象徴する“鉄のカーテン”のカット場面だ。オーストリアとハンガリーの国境でハンガリーのホルン外相(当時)とオーストリアのモック外相(当時)が1989年4月、メディアを招き、“鉄のカーテン”を切断した。東欧記者だった当方はそこで歴史的なシーンを目撃し、写真をモノにできた(「ミスター・EU」2007年4月9日参考)。

記憶に残る報道用写真と言えば、そのぐらいしかない。あとは大統領や首相らとの会見記事の場の写真だが、それらは記念写真であって、報道写真ではない。その中で、冷戦時代の終焉を告げたハンガリー社会主義労働者党(共産党)大会直前、当方とのインタビューに応じてくれたハンガリーのネーメト首相との会見シーンの写真は当方の宝物となっている。ハンガリー国営通信(MTI)カメラマンが撮ってくれたものだ(「『ベルリンの壁』崩壊とハンガリー」2014年11月9日参考)。

写真といえば、忘れることができない思い出がある。パリ特派員だった友人記者の話だ。その友人の奥さんと先月、偶然、イタリアのミラノで再会した。友人は40代の若さでがんで亡くなった。奥さんはその後、イタリア人と再婚した。

友人は生前一度、ウィーンの当方宅を訪ねてきたことがあった。彼はカメラが入った重たいカバンを担ぎながらウィーン市内を歩き回っていた。彼には当方の案内など必要でなかった。

朝、曇ったり、雨が降った日はカメラが入った重いカバンを置いて行ったが、天気がいいと朝食を簡単に済まし、直ぐに外に飛んでいった。もちろん、重いカバンを担いでだ。彼は報道用写真には関心がなく、もっぱら観光写真を撮っていた。ビジネスだ。だから、曇った日に写真のシャッターを切らなかった。友人はニューヨークではセスナに乗って自由の女神像を撮っていた。いい写真が撮れれば、セスナ機代などは完全に浮くからだ。

奥さんは、「彼は自分がまもなく亡くなることを知っていた。だから、残される自分や3人の子供たちの為にいろいろ準備していたのよ」という。具体的には、彼が撮影した観光用写真のビジネスのことだ。

奥さんは、「彼が亡くなった後、数年間、彼が撮った写真から入る収入で余り苦労せずに過ごせたわ。彼には今でも感謝している」と話してくれた。

奥さんは今、ミラノで宝石商の仕事をしている。車で去っていく奥さんを見送りながら。当方は、カメラの入った重いカバンを担ぐ友人の姿を思い出そうとしていた。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年6月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。


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