戦後の日本経済のフレームワークが戦時体制でつくられたことは、野口悠紀雄氏の「1940年体制論」でよく知られているが、公的年金や健康保険などの制度も「福祉国家」のためではなく、国民を戦争に動員するためにつくられたことは、あまり知られていない。
坂野潤治氏も書いているように、社会政策を生み出したのは軍部である。大恐慌で農村が疲弊し、飢餓や身売りが横行した。これに怒った青年将校がクーデタを起こした。特に大きな衝撃を与えたのは、1936年の二・二六事件だった。
広田内閣の社会局長は、『厚生省二十年史』で次のように書いている:
二・二六事件のとき私は土木局長から社会局長官になったのだが、そのとき感じたことは、わが国の経済は非常に発展し、資本家の力は伸びたが、その半面貧富の差がひどくなり、社会情勢は逆に悪化の傾向をたどっているということであった。[…]私は社会局長官として、この社会不安を取り除くため、強力な社会政策を打ち出すべきことを痛感した。(本書p.75)
このような「農村社会政策」の一環として国民健康保険ができ、内務省の外局だった社会局が衛生局とともに分離されて厚生省となった。それが設立されたのは、近衛首相が1938年1月に「爾後国民政府を対手とせず」と表明した5日後である。
近衛は日中戦争の危機に「国民一体」となることを呼びかけて社会政策を推進し、1941年には労働者年金(のちの厚生年金)が設立された。その短期的な目的は戦費調達だったが、最大の目的は産業戦士の士気の向上だった。軍人恩給があるのに労働者には老後の保障がないことを無産政党が批判し、革新官僚がそれに応じて年金制度を創設したのだ。
これはイギリスで生まれた「福祉国家」とは違い、国民を総力戦に動員する体制だった。山之内靖氏なども指摘したように、その理論的リーダーが大河内一男である。彼はマルクス的な「疎外」を国家が解決する手段として社会政策を提唱したが、これは彼の所属した昭和研究会の理念だった。厚生省と左翼の温情主義は、戦前からつながっているのだ。
優生保護法の改正で「団塊の世代」が生まれた
厚生省は兵士を増やすため、堕胎を禁止して「産めよ殖やせよ」の人口政策を取ったが、これは戦争に間に合わず、終戦直後に(復員兵や植民地からの引き揚げなどもあって)人口は5年で1000万人以上も増えた。
これに対して政府は1949年に優生保護法を改正して堕胎を解禁したため、1950年代に出生数が激減し、1960年には1/3になった。戦後のベビーブームで出生数が増えた国は多いが、日本のようにその後、出生数が極端に減った国はない。
この人口の急増と急減が「団塊の世代」と呼ばれるいびつな人口構造を生み、70年後の今、超高齢化・人口減少として顕在化している。日本経済が直面している人口問題の原因は戦時中の人口政策であり、社会保障のひずみをつくりだしたのも総力戦体制だった。いま日本が迫られているのは、こうした戦時レジームの清算である。