青木昌彦先生の思い出 --- 中村 伊知哉

2015年07月20日 10:19

コノヤローッ。
35年前のこと。ハンチング姿でうつむきかげんに吉田キャンパスを横切る男性に向かい、ヘルメットかぶった学生風が、そう怒鳴りました。
なんなん?ギターを抱いたぼくは一緒にいた友人に聞きました。あの人が青木教授や。そうか、あのハンチングが、60年安保のブントを指導した、伝説の姫岡玲治か。
その共産主義者はその後、ダイナミックなことに、近代経済学の権威となり、ぼくが入学した京都大学経済研究所の教授を務めていました。
当時まだ残っていたヘルメット系にすれば、ヤジらなければすまない相手だったのでしょう。
でも、初めて見かけたそのハンチングは、存在感がないヘルメット系より、うんと不良、いや、「引っくり返す」という意味での、正しいパンクに映りました。
パンクには惹かれても、授業に赴くつもりなぞない単なる不良のギター小僧にすれば、何の縁もない、異次元のひとでした。大学で見かけたのもその時だけ。その後、その人はスタンフォード大学の教授に転じます。

役所を飛び出して就いたMIT客員教授の契約が切れようとするころ、ぼくは池田信夫さんから経済産業研究所(RIETI)に来たらどう?と誘われました。
時の所長が青木先生。退官したとはいえ通産・郵政戦争の最前線にいたぼくが入ることは霞ヶ関の論理ではあり得ません。
おそるおそる面接に赴きました。ハンチングではなく、すっかりシルバーヘアでした。白髪にあこがれていたぼくは、ええなぁ、と見とれていて、やりとりは覚えていません。ニヤリとしながら、鋭い眼光。
当時のRIETIは池田さんのこのブログにあるとおり、パンクなコミュニティでありました。パンクなボスをいただいたわけです。
経済産業研究所という梁山泊

次にお目にかかったのは、西海岸のご自宅。スタンフォード日本センターの安延申研究所長から、オレの後任に入れ、手続としてスタンフォード大学の面接を受けてこい、との連絡。
センターの創設者が青木先生であり、最終的にはその了解が必要です。その際、家族4人で西海岸に出向いたぼくらは、大学構内にある自宅に招かれ、先生の手料理をいただきました。
先生がポンポン空けるワインで親父がベロンベロンになり、戸惑う小学生の息子たちを見て、先生は鋭い目つきでニヤニヤしていました。これは縁やな、と感じました。13年前のことです。

以後、ぼくは西海岸で、京都で、東京で、ひんぱんに先生にお目にかかるようになりました。少しだけ、アカデミズムをかじることになりました。不良から、不肖ぐらいにはなろうと心がけました。
ある日、先生がノーベル経済学賞を受賞するかも、という情報が入り、スタンフォード大学を代表してその業績を讃えた祝辞を用意し、プレスリリースとサイトも準備しました。その日に備え、ずっと手元に抱えています。
前回お目にかかったのは、京都でした。1年半ほど前のこと。先生が主催するスタンフォード大学のラウンドテーブルに呼んでいただいたのです。
ネットのもたらしたもの-京都での国際対話
 

南禅寺で湯豆腐を食いながら聞きました。そないに西海岸と京都を往復して、時差ボケしませんの?「歳とるとね、寝てもスグ目が覚めてね、普段ずっと時差ボケみたいなんで、大丈夫なんだよ。」
真顔でおっしゃる。むむ、どう応えてええかわからん。そしたらいつものようにニヤニヤしはじめた。冗談かい。先生、お元気でよろしいが、今度ぼくが西海岸行きますよ。「うん、そうしてよ。」
すみませんでした。それが最後でした。

アメリカの政治的ジャパン・パッシングと日本経済の弱体化を反映し、スタンフォード日本センターの研究部門は10年前にいったん休眠としました。それを再興するミッションをぼくは帯びています。
霞ヶ関以外の政策立案の場を作ることもミッションです。経済産業研究所で青木先生が立ち向かい、梁山泊を作り上げたものの、政府にそれを支える度量はなく、宙に浮いたまま。
ぼくがスタンフォード大学とIT政策研究会を開催しているのも、その両ミッションに向けた一歩です。不肖、ミッションを進めます。パンクは、その先にあります。
安保法案で国会が荒れるさなかに急逝されました。日本の大学の存在が問われている中に世を去られました。どうなんでしょうね、先生。これからは、心の中で問いかけることとします。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2015年7月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。

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