安倍談話を未来に活かせるか考えてみる・上――右派編

八月十四日、安倍談話が発表された。せっかくなので(?)、思うところを書いてみたい。

この談話の特に前半は全方位的な内容のため、一部が言うように「安倍総理の本心」は見えてこない。当然、国際社会に向けての一文だから首相の個人的思想が丸出しになっていたら困るのだが、面白いのは、この談話の解釈によって読み手の立ち位置が映し出されることだ。

右派の中でも意見は分かれている。この談話に「安倍でもこの程度か」「戦後があるのは英米様のおかげです、なんて詫びるんじゃない!」と不満を持っている人もいれば、絶賛の声もある。安倍談話は右派の修正主義者と見られてきた安倍総理にとってはマイナスイメージからのスタートだからこそ、これがぎりぎりの線だったのだろう、というのが私の感想。談話といえどあくまで「政治文書」だからだ。

ただ「孫子の代へ謝罪の宿命を負わせない」の一文は大きい。この一文に「ホッとした」人は多いのではないだろうか。


この理念の実現が「戦争を防ぐ」と言えば言いすぎかもしれないが、「半永久的に敗戦国の立場に追いやられる戦後体制に不満を持つ人間が、戦争を希求する理由」の一つは解消に向かうのではないかと思う。

これまで朝日新聞や左派は「戦犯の子も孫も戦犯」という論調を煽り、「相手が良しとするまで謝り続けろ」と言い、今回の談話の後も「謝罪が足りない」とまだ書いている。だがこのような姿勢がむしろ戦後秩序の破壊を誘発する懸念があった。なぜなら「もう一度戦争をやって勝たない限り、日本人は未来永劫謝罪する責務から逃れられない」という考えへ日本人を追い込みかねないからだ。

村山談話公表以降、歴代内閣は踏み絵を踏まされ、特に公的な立場にある人間はこの歴史観に反するような侵略・植民地支配の否定はしづらくなった。村山談話以前にはできていた首相、閣僚の靖国参拝もことさら問題視されるようになった(談話だけが原因ではないが)。左派は最近になって「言論弾圧だ!」と言っているが、何をかいわんや。もとより「日本にも言い分がある」「いいこともあった」と言っただけで、歴史修正主義者、保守反動、戦前肯定、軍国主義者と言われかねない状況があったのだ。

その間、右派は、戦前を肯定するな、戦後も大人しくしていろとの圧力を受けながら「なぜ日本だけが」「七十年もたったのにどうして」「これは日本のあるべき姿ではない」の思いを高めて来た。そして、自虐史観否定の声は、近年大きくなっていた。それにはプラスの面がある一方、右側である私からみても確かに「このままでは行きすぎるのではないか」と思う面もあった。

それを朝日新聞や左派の言論では「右傾化」と位置付け、第二次世界大戦前のドイツになぞらえて懸念を示してきた。確かに人種差別的な物言いや、穏当な範囲を超えた日本賛美に及ぶ言説、或いはGHQや敗戦利得者、中韓にやられ放題だったとする「戦後被害者史観」とも言うべき言論が目に付き始めたのは事実だ。だが朝日や朝日的論者たちこそが先頭を切って一部の人たちをその状況へ追い立てていることには気づかなかったのだろうか。

朝日が右傾化とする現象の多くは、「朝日新聞的なるもの」に対するリアクションだ。右派は「朝日新聞的なるもの」の合わせ鏡の像として生まれ、増幅してきた。朝日などが「もっと強く非難しなければ危険な奴らが増えてくる」とばかりに頭ごなしに批判すればするだけ、逆効果になって来た。(これはいわばアメリカ的な政策を急進することで反米原理主義的な思想を生む構図と一緒で、)戦前を否定し、戦後を肯定すればするほど、戦前肯定/戦後否定の圧力は高まるのだが、朝日新聞はそのことに気づこうともしない。

歴史を引き合いに出すなら「第一次大戦の敗戦国であるドイツを締め上げすぎた」事実をもう少し顧みるべきだろう。許されぬ行動に出た側をかばうつもりはないが、追い詰めた方にも責任はある。規模は違っても、誇りを傷つけられ追い詰められた人間の行動は、時に理性を超える。

安倍談話の前半は、村山談話の域を超えてはいない。それは想定の範囲内ではあった。日本が敢えて改めて「告解」をすることで、すべてのわだかまりを終わらせようとするかのようだった。これが奏功するかは、談話が出ただけでは判断できない。

ただ「子孫に謝罪の宿命を負わせない」との一文に関しては、こちらの罪ばかり強調される内外からの抑圧による不満や悔しさ、無念で膨れ上がっていた一部の戦後世代の心を多少なりとも解きほぐしただろう。この一文は「戦争に負けてすまなかった」と悔やむ祖父の代の無念を成仏させ、「どうして俺達まで謝り続けなければならないのか」と憤ってきた孫子の代の気持ちをなだめるものであったと思う。

もちろん、この一文の理念の実現は、「今後の謝罪は一切不要」という態度ではなしえない。歴史に謙虚に、イデオロギーの道具にしないように。よかったこと、悪かったこと、したこと、されたことをフェアに評価し直して、相手に「謝罪せよ」などと詰め寄らない姿勢が必要だ。アメリカ人の中でも原爆投下を肯定できないとの空気が広まっているとも聞くし、ヘンに政治問題とからめなければ、フェアに歴史を評価しうる時代はもうすぐそこまで来ていると思う。

だからこそ、気をつけなければならない。右派がもしも談話を「二度と謝る必要がなくなった」「日本はむしろ被害者だった」と言わんばかりに免罪符にして開き直るようなことがあれば、あの一文の価値も水泡に帰すだろう。(下に続く)