TPP著作権合意を受けて --- 中村 伊知哉

TPP合意に至った関係者の努力に敬意を表します。
日本は交易で身を立てるしかなく、その不完全な仕組みを改めていくことは国益にかなうと考えます。

ただ、成長戦略という提供側の意義ばかりが注目されていることが気になります。
自動車産業など輸出拡大を狙う分野はそのとおりでも、農業など弱い分野も同様に農家保護のような提供側の議論ばかり。
ぼくはそれよりも、海外からいいものが安く入るという利用側の効用の意義が大きいと考えます。
TPPの意義は、GDPの観点だけでなく、消費者余剰の拡大の観点から分析すべきです。

しかしながら、著作権に関しては効果が逆です。
TPP著作権分野の合意内容は、アメリカが望む保護期間延長、非親告罪化、法廷損害賠償の3点セット。いずれも提供側の保護強化を意味します。

これは、利用側の効用を下げることにつながります。
これまで日本は、提供・利用のバランスをとって著作権制度を積み上げてきました。アメリカなどに比べると、利用者・消費者の利益に配意する仕組みでした。これが崩れます。

この決着は権利者にとってよい方向とみるむきもありますが、提供と利用のエコシステムが崩れると、長期的な文化の弱体化につながりかねません。提供側にとっても果たして朗報なのかどうか。冷静な分析が必要です。

そして、崩れるバランスを、国内制度で改めてどう調節できるか。重大な事態です。

TPPの知財分野に関しては、政府内での議論が避けられてきました。国際交渉をしばる国内議論を控えた、と申したほうがよろしいか。ぼくも知財本部の場で何度か問題提起しましたが、時が来ればしかと対応しよう、という決着でした。
その時が、来ました。

福井健策(@fukuikensaku)さんがツイートするとおり、「これから詳細条文の詰めと公表、署名、各国議会承認、国内法整備、その後の運用など、いくつも山があり、論争が待っている。特に、最終の条約本文と国内法制の両段階で、どれだけ各国実情に応じたセーフガードを盛り込めるかは極めて重要。」であります。

TPP著作権の合意を受けて国内の制度を構築する手続は現時点では不明です。ぼくが関わる知財本部で受け止めて文化審議会に渡すのか、さっそく文化審議会で始めるのか。批准からどれくらいの整備期間が許されるのか。

ぼくはこれまで、保護期間延長より、非親告罪化のほうがクリティカルだと表明してきました。

保護期間延長は、コンテンツ業界を利すると言っても、いま売れているマンガ・アニメ・ゲームの作者が亡くなってから50年~70年先の話で、当面の利益に乏しい反面、過去から売れているアメリカの業界を利する。いずれにしろ利用者にとって利益は見当たらない。ただ、経済的にみてさほどインパクトはあるまい。かつてはそう思っていました。

でも、この数年、ヨーロッパやアメリカの国家的なアーカイブ戦略が激しさを増していて、そこでは保護期間の長さがマイナスに働くという認識が明らかになっている戦線に、日本の条件を不利にするという点で、ヤバい話だと思い直すようになりました。

他方、非親告罪化は、プロとアマが文化を共有して表現する暗黙裡の土壌が日本のポップカルチャーを支えてきた実態からみて、そのエコシステムを壊すことは、根本的な問題だと考えてきました。この考えは今も変わりません。

しかし、本件をもし知財本部で扱うとなると、座長としては中立が求められますので、ぼくは態度の表明がはばかられます。以上の考えは、ひとりごとです。

TPP合意において、非親告罪化には一定の配慮も盛り込まれましたが、さて、国内制度としてどうセーフガードを設けるか。

これも福井健策さんがツイートしています。
「当然、日本でも大幅な権利強化のマイナス面を抑えるため、フェアユース導入や二次創作法制、CC・同人マークなどのパブリックライセンスの普及、権利情報データベース整備、孤児作品対策ほか、思い切った抜本対策が求められるだろう。」

セーフガードにとどまらない、ダイナミックな制度論議や政策が求められます。今回の決着を奇貨として、より大きな知財の制度論を展開したいものです。

この論議で求めたいことが2点あります。

まず、「データに基づく分析」です。
著作権の制度論が文化庁で論議される場合、データに基づく科学的な分析が乏しく、権利者と利用者の綱引きをにらみつつ法学者が断ずるケースが多く、問題を感じています。

制度を動かすことによって、著作物の生産量や流通量はどう動くのか、経済的なインパクトはどの程度か。他の行政分野と同様、そうしたシミュレーションやアセスメントを踏まえて、政策プランを論じていただきたい。

もう1点。「プレイヤー」です。
今回は、これまで築いてきたシステムを壊す課題への対応です。これまでの制度構築にあたってきた法学者や事業者の世界にとどまらない論議を要します。コミケ関係者、ネット関係者や経済学者など 広い分野の英知を活かしてもらいたいと考えます。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2015年10月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。