「異文化との接点」考

若井 朝彦

先日12日、「現代とカントル」考を書いたときのことだが、その中にわたしは、ふとこんな言葉を挟んでいた。

(日本を西洋に含めていうのだが)人生の意味はカントルの生きた時代よりもなお希薄になっているのではあるまいか。

ここで「日本を西洋に含めていうのだが」といったのは、婚姻の形態、緩やかな父系社会、男女平等の理念、教育の尊重、文化財を通じての歴史の保存、戦争に対する態度、宗教についての無関心に近い寛容、などから言えば、日本は西洋とほぼ等質とみてもいいだろう、という程度の意味であった。そして、わたしには中東イスラム圏の人々の人生観は、とても見当もつかない、という気持ちであった。

したがってパリでテロが起これば、わたしは、日本で起こったことのように思わざるを得ない。フランス人は同意してくれないかもしれないが、日本の習慣や文化や制度が攻撃されたのとほとんど同じだからだ。今日の夕刊もそうだったが、明日15日の朝刊の一面が、11月13日のパリの同時テロのニュースで埋め尽くされていることに、きっと納得することだろう。

同程度の自爆テロは中東ではしょっちゅう起こっているが、軒並みベタ記事である。このことに違和感を感じることはなくはない。人命にここまで軽重があってよいものか、と。だがこれもやはり当然ではないか思う。現地で起こっていることについて、なんら解決法を思いつかないわたしは、冷淡な人間であろうか。想像力の弱い人間であろうか。

しかしわたしはなにより危険を嫌悪する。銃口がわたしに向けられることを望まない。もし銃を持っていれば、先に撃ちたいとさえ思うだろう。

だが緊急の場面でなければ、なんとかしてその異文化と接点を持ちたいと思う。どこかに共通の概念はないだろうか。人間として同じような欲望はないだろうか、と。もしかするとこれは、すでにストックホルム・シンドロームの入口なのかもしれないが。

ところで911の実行者の一人は、その前夜、つまり明日は死ぬという日、一人で酒場にでかけ、また快楽にも耽っていたという。

これはアメリカから伝わってきたはなしなので、都合よく創作されたものなのかもしれない。死を前にした破戒。しかしわたしは、フィクションかもしれないこのはなしに、かすかな接点を感じる。明日の天国よりも、いまこの現世を貴んでいるという瞬間が、彼にもあったのではないか、と。

またわたしはいつも思う。原子力発電所を安全に運転するためにも、また廃炉にするためにも、いずれにせよ今まで以上にその専門家を、技術者を増やさなければならない。思想でも同じことである。イスラムと対話し、またイスラムと競うためには、その専門家を、増やさなければならない。

深い理解と多くの接点がなければ、正しいものであれ、また結果的にまちがったものであれ、解決法すら立てられないのである。

 2015/11/14
 若井 朝彦(書籍編集)

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