政治力が機能する韓国の裁判のあり方

岡本 裕明

韓国の裁判は時の政治の圧力が影響しやすいと改めて実感させたのが先日の産経新聞の加藤支局長をめぐる判決でした。そのポイントは無罪という結果よりも無罪に至る見えない過程に駆け引きらしきものを感じたことではなかったでしょうか?日本政府は韓国政府に対して本裁判に配慮をするよう迫り、韓国外務省(外交省)もこれに応える形で裏で動いたとされます。

韓国の特徴を語るいくつかのキーワードの一つに事大主義があります。強いものに巻かれるということでありますが、朝鮮半島の長い歴史を紐解くと高句麗、百済、新羅の三国時代にお互いが自国を守り勢力を広げるために中国、日本をも巻き込んで壮絶な「味方の獲得競争」をしていました。これからも分かるように強い仲間内を作り上げ、相手を押しのける、それがうまく機能しないなら仲間を変えるという短視的で自己都合による争いの歴史でもありました。

事大主義は結局、時流に合わせて右のものが左になり、左のものが右になる、ということであります。これが裁判に於いても反映されるのであれば韓国に於いて普遍的な判断はいつまでたってもなされないとも言えます。日本が韓国との外交に手を焼くのは一般に言われるムービングポストゴールで「これですべて終わり」がない点であります。今日、完全合意しても数年後にはまるで違うことを言われる社会であります。

2011年に憲法裁判所で慰安婦問題に絡み、元慰安婦の個人請求権はある、と判断されました。それまでの1965年の日韓請求権協定を通じた完全で最終的な解決は韓国国内の判断として捻じ曲げられたのです。65年の日韓の交渉は多額の賠償を日本側が提供する見返りに韓国側は一切の戦争時や占領時の問題をこれで封じ込めるという協定でありました。その際、日本政府からの多額の賠償を一旦韓国政府が受け取りそれを各個人に賠償することでも合意しています。

実際には朴槿恵大統領の父である朴正煕大統領(当時)がその賠償の多くを韓国のインフラ整備に使ったため、各個人への賠償が十分に行かなかったとされます。もちろんそれは当時の韓国政府の判断であり、日本政府とは何ら関係ありません。

12月23日、憲法裁判所で65年の日韓請求権協定は財産権侵害で憲法違反であるとの韓国人個人の訴えを却下しました。裁判の内容を見る限り原告が十分な補償を受けていないことを理由に65年の協定そのものの効力を問う形だったとみてもよいでしょう。却下されたその判決は合理的でありますが、一方で憲法裁判所は日韓請求権協定の有効性については判断を避けました。つまり、今後、同様の訴訟が生じた場合、その時々でどのようにでも判断できる余地を残したとも言えます。

これはいわゆる日韓のこの数か月の政府レベルでの雪解けムードを反映し、政治が司法に一定の働きかけをしたのではないかと報道されています。ここでも韓国の事大主義を垣間見ることができると言えましょう。

では、なぜ、韓国が日本に擦り寄ってきたのか、でありますが、直接的には経済のダメージが大きかったと考えています。先進技術の日本と大市場を抱える中国に挟まれ、当初韓国は大市場に自国製品を供給できる中国を選びました。これはビジネスで言う営業の立場が優位だったとも言えます。ところが韓国の技術は日本の技術をベースに成り立っており、日本が供給を絞れば韓国は売るものがなくなり、競争力を必然的に失うことになります。つまり、このシーソーゲームは開発製造の立場が強くなったとも言えるでしょう。

これ以上、日本と喧嘩していては不利になるというボイスが歴史の繰り返しとして再び持ち上がってきているとも言えます。日韓両国首脳は慰安婦問題の早期解決を目指すと声明を発表し、高官レベルでの交渉が続いています。トップ同士強い信念があるこの問題の政治妥結を図る為にはそれを妨げるいかような事象も避けたいと考えるのは当然でありましょう。先日の靖国放火事件の犯人がひょこり日本にやってきたのもそのあたりの背景と指摘されています。

ただ、今回の判決でも政治力が裁判所の判断に影響したのではないか、と堂々とメディアに書かれてしまう点に韓国の司法制度の脆弱性を感じます。

そこまで言ってしまえば2011年の慰安婦への個人請求権を認めた判決は十分な政治判断を加味させられなかった時の大統領、李明博氏の「失策」であり、自業自得で奇妙な行動に走ったとも言えなくはありません。韓国の政治を牛耳るのは司法当局までも抱き込めるほどの器量が必要だとも言えるのでしょう。

では今日はこのあたりで。

岡本裕明 ブログ外から見る日本、見られる日本人 12月24日付より