危機における情報提供のあり方

森本 紀行

160112

無用の不安を醸成することは、心理的集団行動を誘発し、事態を悪化させる可能性がある。このことは誰にも否定できない。情報の積極的な提供が、不安を増すのか、不安を減少させるのかは、状況に高度に依存し、誰にも事前に予測できない。


有名な事例は、銀行の取付け報道である。最近の日本の例では、1998年の日本長期信用銀行と日本債券信用銀行の一時国有化の前後に、一部の銀行に取付け騒ぎのあったことが知られている。しかし、当時の報道機関は、一切、そのことを報じなかった。故に、歴史の記録上、取付けはなかったことになる。

いうまでもないが、銀行の手元現金準備は、預金総額のほんの一部であるから、大量の預金引出しには対応できない。預金者が引出しに殺到(これが取付け)すれば、当然に、銀行は払出し停止に追い込まれて破綻する。

銀行の破綻懸念が信用不安を起こすよりも、信用不安に基づく預金者の行動が銀行破綻を招く場合のほうが多い。だから、取付けは報道しないほうがいいと考えられてきたのである。取付け報道が更なる取付けを誘発し、金融危機を深刻化させる可能性を否定できないからだ。

当時の金融危機において、報道機関の対応の裏に、政府当局の指示(もしくは指導、あるいは要請)があったかどうかは、わかない。仮になかったとしても、おそらくは、報道自粛したと思われる。このことが、国民の知る権利との関係で妥当だったかどうか、これは、極めて高度な問題である。

同じことは、福島における原子力発電所の事故報道についても、当てはまる。最高度の専門的知見がない限り解釈し得ない事象の報道のあり方は、一体、どうあるべきなのか。政府や東京電力は、そのような論点の検討なしに情報開示していたとは思われない。

当時、政府や東京電力に対しては、情報開示が遅いという批判があった。しかし、国民の情報吸収能力との関係で、高度な配慮のもとで、徐々に、開示のあり方が調整されていた側面もあったに違いない。国民のなかに、惨事を冷静に受入れられる心理的な力、いわばパニックに対する耐性が生じていることが、積極的な情報開示の前提条件だったはずなのだ。

しかし、状況は変わる。銀行の取付け報道にしても、金融危機や現実のペイオフ実施を経て、国民の金融知識が深まり危機に対して冷静に振舞う力が高まってきている今日、報道自粛すべきかの判断は異なってくるであろう。むしろ、今では報道すべきなのかもしれない。同様に、福島の経験の後では、原子力事故の報道も違ってくるのかもしれない。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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