批判するなら元記事くらい読もう

■的外れな炎上
『週刊ポスト』の曽野綾子氏の記事「高齢者は『適当な時に死ぬ義務』を忘れてしまっていませんか」が炎上しているというので、一体どんな記事なのだろうと、久々に『週刊ポスト』を買ってみた。

読んでみると、この記事の論旨は「ある程度の歳になって、自分の身の回りのこともできなくなり、さらに命の危険が迫ったら、無理して延命せず運命に任せて、誰にも約束された死を迎えるべきではないか。死を覚悟する教育も必要だ」ということだった。タイトルの「死ぬ義務」という言葉が誤解を誘発しているのだろうが、これは「生きる権利」を主張し過ぎる風潮に対してのものだろう。当然のことながら、「役立たずの年寄りは空気を読んで今すぐ死ね、義務を果たせ」などという論旨でないことは明らかだ。

確かにインパクトのあるタイトルではある。だがあくまでも週刊誌の見出しだ。ネットの「釣り」だったら、中身を見ないで騒ぐ方が笑われる。週刊誌も、活字ではあっても煽りタイトルには一日の長があり、「過激なタイトルだけど、何が書いてあるのだろう」と思わせるのが技でもある。読んでみれば、論旨は先に書いたとおりで、議論はあるだろうが「炎上」が話題になるほどのものとは思えない。


記事を読めば、「適当な時」とは年齢による区切りではなく、ある程度の年齢を過ぎたうえで、自分で自分の生活を回せなくなったり、あるいは体調の急変や持病の悪化などで命の終焉を悟らざるを得なくなった「時」を指していることは明確だ。いわば「お迎えが来たらそれに任せよう」というのに近いと思う。

しかも曽野氏自身も「その時」が来たら「義務を果たす」覚悟はできているようだ。「私は自殺しようと思っているわけではないが、健康的な生活を維持したり、働くことが出来なくなった時に寿命が来て死ぬ……それが美しいのでは」と曽野氏は述べている。この記事に対して「『年寄りは死ね』論者か」「あなたからどうぞ」「お前は高齢者じゃないのか」「自殺を奨励している」などと言った反応は実に的外れだと言える。

■国語力の問題? それとも……
にもかかわらず、なぜ「お前こそ死ね」的な的外れなレスポンスが起こるのか。理由として考えられるのは、まさかとは思うが「そもそも元の記事を読んでいない」からではないか。

記事を読んで論旨を把握し、その上で批判をされている方にとっては言うまでもないことで大変恐縮だが、仮に「読まずに批判」が横行し「また炎上」などとする記事が流れ、それを読んだだけの人がまた叩く……というようでは、メディアリテラシーなど望むべくもない。

『週刊ポスト』の記事の元になった産経新聞の記事に対しても、「利己的な年寄りが増えた」という内容であるにもかかわらず、どういうわけか「長生きは利己的だ」と受け取る人がいるようだ。この二つの文章の示す意味が全く違うことは、読めばほとんどの人が理解できるはずだ。

中身を読まずにタイトルだけで批判した、という人はこの際、正直に心の中でそっと手を挙げてほしい(ちなみに『週刊ポスト』の該当記事は曽野氏が執筆したものではなく、曽野氏の受け答えを「 」で交えながら記者(?)が執筆している)。もし記事を読んだのにこのような反応だった(つまり文章が読めていない)のならもっと事態は深刻だが……。国語教育の在り方を一から考えなければならない。

■「中身を読まない自慢」の恥ずかしさ
さすがにブログである程度まとまった感想を書くとなると、読まずに批判することは難しいようで、読んだ上で賛否を考えていると見える文章に行き当たる。だがtwitterでは、やはりタイトルから(勝手に)想像を逞しくして憤っている方が多いようである。記事内の文言に対する言及も少ない。

だが「読まないで批判する」ことは、恐るべき傲慢でかつ怠惰な態度ではないだろうか。たとえ、ある一定の話題についてはテンプレな反応を見せる朝日新聞が相手であっても私は絶対にしない。なぜって、ちょっと読めば済むことなのだ。

立ち読みを薦めはしないが、420円を払えないなら(私も久々に買ってみて高くて驚いたが……)図書館で閲覧してもいい。本屋に行かずとも、週刊誌ならコンビニにも売っている。ちょっと読めば済むことなのだ。その程度の手間を惜しんで、人の記事を批判しようとは……。

今回の曽野氏の記事は、「お手軽に(高齢者という)弱者を守るポジションに立ち、正義を気取ることができ、(曽野綾子という)権威を批判できるおいしいネタ。タイトルから見て叩ける素材だし、420円を払って雑誌を買って読むまでもない。どうせロクでもないことが書かれているに決まっている」ということなのだろうか。「たかがネットの、たかが匿名のtwitter」だから、憶測で好き勝手書いて間違っていても平気の平左なのだろうか。

このようなことは、「嫌韓・反中本」批判にも散見されたし(読む必要はない! と言い張る人もいる)、書き手が社会的地位を失っている場合にはより露骨な形で展開された。元少年Aの『絶歌』や小保方晴子氏の『あの日』に対する反応がまさにそれだ。

読まない理由、出版すべきでなかったと考える理由を述べるのはいい。印税を渡したくない、本を出す根性が気に入らない、出版社がゲスである、そもそも忙しくて時間がない、などといった様々な理由があるだろう。だがその場合には、少なくとも内容について言及することは控えた方がいい。

百聞は一見に如かず。読めばもっと具体的に本や筆者を批判できるだろうに、なぜしないのか。「ちょっと読めば済むことをせず、読まない理由を躍起になって言いつのる」のはなぜか。話題に乗っかってポジショントークをしたいが労力を費やすのは嫌、ということだろうか。

本の場合は読むのに数時間はかかるだろうから手間を惜しみたい気持ちは分からないでもない。「ネットに転載されてりゃ簡単に読めるのに……」という思いもあるのだろうが、週刊誌や新聞の記事など、読むのにそう手間取らないようなものであるなら、「読まずに批判する」のは怠惰以外の何ものでもない(もっと言うとそれ以前に、恥ずかしくないですか。あたかも読んだかのように内容を貶してからの、「へぇ、さっそく読んだんですか?」「いえ、読んでません」『エー、読んでないのかよ』という展開……)。

記事や本を、その内容を以て批判するなら、少なくとも元記事を読むくらいはしよう。

梶井彩子
ライターとして雑誌などに寄稿。
@ayako_kajii