子供じみた歴史論争(八幡和郎さんの記事への批判と反論)

2016年03月06日 06:00

2月11日の「建国記念の日」に因んで、私は「日韓関係に関連した建国記念の日の意義」と題する小論を2月16日付のアゴラに掲載させて頂いたが、あまり読んで貰えなかった様だし、「いいね」と言って下さったのは2人に過ぎなかった。これに対し「任那を教科書に載せるなと韓国国会は決議したが」と題する3月3日付の八幡和郎さんの記事はよく読まれ、既に1000人を超える人達が「いいね」と言っている。

「歴史を学ぶ事が将来への教訓を得るのに極めて有効だ」というのは、多くの人達が認める事だとは思うのだが、それは歴史を客観的に見た場合にのみ言えることであり、歴史が「民族意識や愛国意識の高揚の材料」となれば、これはむしろ逆効果になる。

先のアゴラの記事で、私は「せめて古代史ぐらいは日韓の学者が共同で研究すればどうか」という提案をしたのだが、「韓国の子供じみた国会決議」や「八幡さんの記事とそれに対する多くの日本人の支持」を目の当たりにすると、残念ながら、そんな事は夢のまた夢の様に思える。

率直に言って、その観点から、前出の八幡和郎さんの記事を私は全く評価しないし、むしろ「不適切な煽り」として糾弾したい。今回の記事はその為のものだ。「いいね」と言ってもらう事は全く期待していないが、正すべき事は正さねばならない。

現時点での政治的思惑と結びつけて、何故「歴史」を語るのか?

私のアゴラの記事に対して「いいね」が殆ど貰えなかったのは当然であり、私は別に僻んでも拗ねてもいない。人は「そうだ、全くだ!」と思わねば「いいね」とは言わない。自分は白、相手は黒で、はっきりと自分の側についてくれない意見などは、唯うるさいだけだろう。

私は「客観的に見ればこんな事ではないだろうか」という事を語ったに過ぎないのだが、「松本さんは韓国に思い入れがあるらしく、韓国側の肩を持っている」という批判まであった。私はどちらの肩を持ついわれもないし、そうしても何のメリットもないのに、そういう観点に立ってでしか人の意見が聞けない人達は、結構多いのだろう。残念なことだ。

さて、歴史の話に戻ると、一番子供じみているのは、残念ながらいつも通り韓国人だ。現在の中国の遼東半島は、元々は高句麗人の祖先の「古朝鮮人」の土地であり、後の世にこの地で隆盛を誇った「渤海」国も高句麗系の王朝だというのは、勿論その通りだと思うが、現時点でわざわざそんな事を声高に言われれば、「領有権まで主張しかねない」と中国人は身構えるだろう。

そもそも、高句麗を作った濊狛系の民族は、漢人とは違うが、韓人とも違う。高句麗系の血を多分に受け継いでいる現在の韓国人が「自分達の祖先だ」と言えば、「そうですね」と言うしかないし、中国人が「昔から今に至るまで、中国を構成してきた民族の一つだ」と言えば、これまた「そうですね」と言うしかない。そもそも、そんな事を今更言い合う事自体が全く意味のない事なのだ。

原則に戻って「民族」というものを考えよう

人が自分の属する集団を愛し、他の集団に敵愾心を持つのは、本能的なものだからどうしようもない。しかし、それを増幅しようとするのは良い事ではない。そもそも、「民族」や「国家」というものはそんなにきっちりとした輪郭が備わっているものではなく、大きく分けると下記の三つに分けて考える必要がある。

1)DNA(血脈)
2)文化(言語と宗教を含む)
3)法的な枠組み(国家、支配体制)

しかし、これらの三つ自体が、その内部では多くの要素の混合だし、これらが生み出す「人の性格」や「思想」となると、更に多くの要素が複雑に絡み合って形成されている。

例えば、米国在住の日系二世の男性がコロンビア人の女性と知り合って結婚して子供を産んだとする。この子のDNAは、1/2は日本人、1/4程度がスペイン人、1/4程度がマヤ系だ。しかし、文化的には、8割方米国人で、これに、父親の影響で若干の日本人的なものと母親の影響で若干のヒスパニック系のものが混ざり合っているだろう。法的には勿論100%米国人だ。

古代の日本の状況を推測すると、果実や貝類の採集をベースに、縄文式文化を築いていた「原日本人」と、数世紀に渡って何度も少人数で半島から流れ着き、日本に鉄製の農機具を使う農業をもたらした「濊・狛・韓系の人達」が混血して、弥生式文化を築き、この「新日本人」の人口が、豊かな農業生産に支えられて急増し、次第に「国家」と呼べるようなものを作り上げてきたと思われる。

つまり、DNAは海峡を越えて融合し、その上に、日本列島にも半島との類似点の多い文化が作られたが、海峡が国家の統一を阻み、その後は、両地域の文化は全く異なった方向へと進んでいったと思われる。

日本人と韓国人が古代史を巡ってまで論争するのは滑稽だ

この様な観点から日本と韓国の関係を見ると、今なお、DNA的にはなお極めて類似していると考えてもよいだろう。しかし、島国と半島という際立った環境の違いの為に、その後「文化」とそれがもたらす「性格」は大きく異なったものになって行った。その為に、現在の両国人は、その「性格」の違いから、お互いに憎み合い、「DNAは同じだ」等というと、目を吊り上げて反発する人達が多い。この有り様は何とも滑稽だとしか言い様がない

「宗教」になると、これは民族や国家を超えたものだ。キリスト教徒や仏教徒はどちらの国にもいるし、程度の差こそあれ、「儒教」の影響も相当残っている。日本では、「神道」が日常生活になお相当の影響力を持っているが、韓国でも、田舎に行けば、なお昔ながらのシャーマニズムはそれなりの存在感を持っている。

言語について言うなら、文法は全く同じだし、多くの単語は中国語から来ているので、漢字の発音の仕方が若干異なるだけだ。「差異」は日本語では「さい」韓国語では「ちゃい」、「故障」は日本語では「こしょう」韓国語では「こじゃん」だ。「勿論」という意味で、日本人は「無論(むろん)」という言葉を時々使うが、韓国人も同じで、これは発音も全く同じだ。今は、韓国でも北朝鮮でも漢字を使わなくなってしまったが、昔は日本の「漢字仮名まじり」同様「漢字ハングルまじり」だったので、お互いに漢字から入ると、お互いの言葉を早く学べた。

国家は、人工的に作られるものだから、曖昧なものではなく、はっきりしている。韓国と北朝鮮の違いは、恐らく韓国と日本の違いよりも大きいだろう。しかし、韓国内には、なお多くの北朝鮮シンパがいるのも事実だ。これが心情的なものなのか、思想的なものなのか、或いは、何か特別な利害から来ているのかは、外からは窺い知れない。

歴史的な事実も、この三原則をベースに考えれば、歪むことはない。それを、現在の日本と韓国という異なった国に無理に紐付けしようとするのは、全くのナンセンスでしかない。

もう一度日韓の古代史を検証し、八幡さんの誤りを正す

「『任那国』はかつての大和朝廷が半島に進出して作った国で、『倭王武(雄略天皇?)』は、ここを拠点に朝鮮半島南部を支配した」とする説は、かつての日本が「韓国併合」を正当化する為に作り上げた「皇国史観」の内容さながらであり、相当に恥ずかしいレベルである。

(特に、「欠字の幾つかは日本陸軍の酒匂大尉が故意に作ったのではないか」という疑惑まである「好太王(開国土王)の石碑」を持ち出すのは、もっと恥ずかしいからやめた方がよい。)

多くの学者によって宋書に記録されている「倭王武」に比定されている雄略天皇は、極めて勇猛果敢な人だったらしく、内部では徹底した恐怖政治を敷く一方、遠く東国まで支配を広げたらしい。だから、「倭王武」が送った宋への朝貢の使者も、相当勇ましい口上を述べたに違いない。以前に「倭王珍(反正天皇?)」が朝鮮半島内部の軍事支配権を求めたのに対しては、宋は「安東将軍」という曖昧な称号を認めただけだったが、「倭王武」に対しては、恐らくその気迫と朝貢品の質量に影響されて、要求を聞き入れたものと思われる。

宋は、海岸沿いに朝貢使を送ってくる高句麗や百済とは、北魏などを挟撃したい思惑もあって丁寧に付き合っていたと思われるが、遥か彼方の新羅や日本の事はあまり知らなかったし、まあどうでも良かったに違いない。だから、まともに朝貢もしていなかった当時の新羅に比べれば、こまめに朝貢してくる倭は評価に値する存在であり、称号を与えるだけで満足してくれるのなら「まあ、いいか」という事になったのだろう。

しかし、これは、「倭王武」が実際に加羅(伽耶)地方や新羅を支配したという意味では全くない。実際には、当時の大和朝廷は、新羅から圧迫を受けていた「親族関係にあった加羅(伽耶)地方の豪族」を支援する為に、頻繁に救援の為の物資や軍を送り、「倭軍」は一時は新羅の都にも肉薄したが、好太王の石碑にも書かれている様に、最終的には新羅を救援にきた高句麗の軍に撃破されている。

後に「任那日本府」と呼ばれるに至る施設が、この地域に存在していた事も間違いない様だ。しかし、それは比較的小規模のもので、倭の救援軍の屯所のようなものであった可能性が高い。「任那」という呼称自体も、百済と日本で使われていた加羅地方の一部の呼称に過ぎず、新羅ではその地域を「伽耶」と呼んでいた様だ。

以前には、百済は、加羅地方の支配権を狙って西から圧力を加え、東から圧力を加えていた新羅と衝突していたが、そのうちに押され気味となり、新羅に取られるぐらいなら加羅地方は自立して欲しいと思ったのだろう。そうなると軍事的に頼りになるのは、海峡を隔てて大勢力に育ちつつあった、加羅地方の豪族達と縁の深い「倭」だったから、「遠交近攻」の格言通り、百済はこの頃から「倭」との親交を深めるよう努力を重ね出した形跡がある。

ところが、近代に至って、「任那日本府」の存在を大々的に宣伝して、当時の「倭」があたかも加羅地方全域を占領して「任那」という国を作っていたかのような印象操作をしたのは、旧日本軍に雇われた御用学者達に他ならない。だから、韓国人は、現代に至ってもなお「任那」という呼称に神経質になるのだ。国会決議は馬鹿げているが、日本での「皇国史観」復活の可能性について神経質になる事自体については、私は多分に同情的だ。

「日本」の呼称は百済が推進した

百済の親日政策は、利害が絡んだものとはいえ、相当に本気だったと思われる。そもそも「日本」という呼称自体が、百済が当時の大和朝廷に勧めた呼称である可能性が高い。

聖徳太子が隋の煬帝に対して「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」という言葉で始まる国書を出した事を、まだ昔気質の先生が多かった1940年代の小学校で、「国の指導者の姿勢として実に立派な姿勢だった」と私は教えられたが、考えてみれば、これは、それまでの朝貢の姿勢を180度否定した「大胆不敵で非常識な手紙」だったと言わざるを得ない。

当時の国際慣行に不案内な聖徳太子が、この様な国書を自分一人だけで起草したとは考えられないから、これは百済から来ていた顧問格の人達から勧められたものだと考えるべきだろう。遼東半島沿岸の権益などを巡って隋と緊張関係にあった百済としては、日本が隋の皇帝を怒らせ、敵に回らざるを得なくなってくれる方が有難かったに違いない。

「日出ずる処」とは、要するに「日本(ひのもと)」である。国名としての「日本」を大和朝廷も意識して使い始めたのは、大宝律令の頃からと理解されてきたが、その起源がここにあるのは明らかだ。

最近、中国の西安で、百済の「祢軍」という将軍の墓標が発見されたが、この中には「日本」という言葉がある。これは日本での大宝律令の制定に先立つ678年のものだから、百済がその頃から「日本」という立派な国名を、中国や半島の諸国に対して宣伝していたのだという事実は注目に価する。

百済人も現在の韓国人(特に全羅道に住む人達)の祖先なのだから、現在の韓国人も「自分達の祖先が何故ここまで親日的だったのか」という事を、よく考えて見るべきだ。

松本 徹三

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