東日本大震災から5年、福島第一原発で僕が見たこと

田原 総一朗

tahara2016年3月1日、僕は東北に行った。目的地は福島第一原子力発電所である。常磐線の特急「ひたち」に乗り、JRいわき駅で僕は降りた。いわき駅からバスに乗り換えて「Jビレッジ」に向かう。

Jビレッジは広野町と楢葉町にまたがっている。ここはかつて、日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンターだった。出資したのは東京電力だ。だが、あの事故以来、スポーツ施設ではなくなった。原発事故の対応拠点となったのだ。

Jビレッジからは、東電が用意したマイクロバスに乗り換え、国道6号線を福島第一原発に向かう。楢葉町から富岡町への国道沿いには、コンビニやラーメン屋、ファストフードの店が並び、一見ごく日常的な風景がつづく。だが、どの店も扉は閉められている。そこには人影がまったくない。ただ建物だけがある。あの事故が奪った暮らしを思う。

人口7000人の楢葉町。そのうち、町に戻ったのが400人。多くの住民は避難したままだ。いったいいつになったら、彼らは元の生活を取り戻せるのか。

現地に着いて、僕が最初に感じたのは、「ここは、戦場だ」ということだ。福島第一原発では事故処理のために、7000人以上が働いているという。そのほとんどが単純労働で、雇用形態も、2次や3次といった下請けである。

積み重なった疲れが彼らを押しつぶそうとしているだろう。ところが、彼らは非常に前向きだ。実に生き生きと働いていた。彼らがやりがいを持って働けるように、東電の社員たちが仕事の必要性をきちんと説明したりして、相当な心遣いをしていることがわかる。

事故処理は、まだまだ先が見えない。汚染水はいまも1日160トン出る。浄化処理装置「アルプス」でも、トリチウムという放射性物質だけはどうしても取り除けない。しかも、しっかり浄化した水でも海に流すのには、いわき市漁協の許可が必要である。もちろん許可されるわけがないので、貯水タンクは増えるばかりだ。

事故を起こした1~4号機だが、最終的には、炉心にある燃料棒を取り出し、廃炉にしなければならない。だが燃料棒がどのような状態か、いまだに確認できていない。そのためのロボット開発も進められている。それでも、早くて30年かかるそうだ。気が遠くなるような時間の長さに、僕はただ呆然とした。

ただし救いもあった。現在、1800人の東電の社員が、福島第一原発または福島県内に駐在している。原発事故で避難を余儀なくされた住民らを、社員が足しげく訪れている。訪問は延べ22万回になったという。社員は総数3万8000人なので、単純計算で1人で5回から6回は住民のもとを直接訪ねたことになる。

ある社員は、住民の方から、「東電は許せないが、あなたがたは信用できる」と言われたそうだ。東電に事故の責任があることは間違いない。批判もされるべきだ。しかし、こうした東電社員の姿も、もっと報じられてよいのではないか。現地を訪ねて、僕はそう感じだ。

この3月11日で、東日本大震災から5年になる。その深夜、「朝まで生テレビ!」で東日本大震災、そして原発について徹底討論する。ぜひ、ご覧いただきたい。


編集部より:このブログは「田原総一朗 公式ブログ」2016年3月10日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた田原氏、田原事務所に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「田原総一朗 公式ブログ」をご覧ください。