本能寺の変の黒幕は正親町天皇だったのか

2016年06月04日 10:30

歴史に謎はない(戦国編)

本能寺の変をめぐる黒幕説が、正親町天皇とか近衛前久ら朝廷関係者とする人が多い。①安土城に天皇を移そうとしていた②大軍を率いて御所で馬揃えをした③正親町天皇の譲位を策した④朝廷からのさまざまな官位官職授与の申し出をことわったとかいうのが理由にされる。しかし、いずれも理由にならない。

信長が天皇を安土に行幸させたがっていたのは事実だろう。足利義満が北山殿に後小松天皇の行幸を迎えたし、豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇を、德川秀忠が後水尾天皇を二条城に迎えたのだから、信長が天皇を自邸に迎えようとするのは当然だ。

本能寺の変の前年に行われた馬揃えは、いわば閲兵式である。天皇は喜び数日後にアンコールまで所望された。朝威は大いに上がり天皇は喜んでいたのである。

譲位は天皇の希望である。天皇はほどほどで引退して儀式から解放され、気楽に遊興しつつ、実質的な権力は保持したかったが、戦国時代には即位に伴う儀式をしたり、上皇のための御所を創る費用がなかったから譲位できなかったのである。

官位については、朝廷は将軍・関白・太政大臣のいずれかを引き受けないかと打診し、信長が断っていたわけでなく、譲位実現後などとしていただけだ。

それでは、信長は朝廷とどうしようとしていたか、明智光秀はなぜ謀反したかといえば、鍵は信忠にある。
家康と一緒に堺へ行くはずだった信忠が予定を変更して京都にやって来たか謎なのだが、これを機会に参内でもして信忠にしかるべき官職を与えることを願うつもりだったのではないか。信長は信忠への権力委譲を円滑にしたがっていた。

信忠には秋田城介を名乗らせ、武田制圧の総大将をつとめさせ、信玄の娘と婚約させていた。この延長には征夷大将軍就任が視野にあった可能性が高い。源氏であることは条件ではないのは、朝廷が信長に将軍就任を打診しているのだからわかる。

その場合に、信長は太政大臣に一時的になり、准三后となるというのが、足利義満の例に倣えば順当だ。

それなら、光秀の謀反の原因は何か。背景としては、四国で光秀が長曽我部との窓口になっていたのに、信長が三好に乗り換えて征伐しようとしたことはある。また、光秀への信長の評価が低下していたし、信長が老臣を安直に追放するようになっていたこともある。

信長が殺されたことについて、当時の人も江戸時代の人も不思議に思わなかった。信長人気は昭和後半になってからである。

要は、信長はチャンスがあったら部下から裏切られる可能性はあったが、それを阻んでいたのが確固たる後継者信忠の存在だった。信長一人を誅しても仕方なかったのだ。ところが、一瞬の不注意で、信長と信忠が、京都で十分な軍勢を率いずに一緒に近所にいた。それを見て光秀が出来心を起こしたという推理するべきだ。

出来心だった証拠に、光秀の事件後の行動は、事前によく考えてたとは言いがたい支離滅裂だ。足利義昭に知らせる手はずもしてなかったし、大阪にあった娘婿の織田信澄(信長の弟信行の遺児)にも知らさなかったのでみすみす神戸信孝や丹羽長秀に殺されている。ただ、それでも、光秀が孤立していたのではない。けっこう、呼応した大名もいたし、日和見組もいた。細川幽斎にしても味方しなかったが秀吉側にもついたわけでもない。

一瞬のチャンスを生かしたものの、秀吉の帰還が想定外に早かったというだけだ。

戦国大名 県別国盗り物語 (PHP文庫)
八幡 和郎
PHP研究所
2015-08-05

 

本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (ソフトバンク新書)
八幡 和郎
ソフトバンククリエイティブ
2012-04-19
アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑