舛添氏の問題から考えること

2016年06月20日 11:47

舛添氏の問題は、知事辞任で一応の決着をみた形です。この問題、舛添氏の辞任の判断が遅かったこともあり、長くそして大きく取り上げられた印象です。問題の根本原因は舛添氏のモラル、価値観の問題にありますが、それを許してしまう仕組みにも課題があるように思います。また、メディアを含めた取り上げられ方やその反応をみると、その背景には都民のみならず多くの人々の多方面での不安感、不信感があり、ことを大きくしたように思います。ここで改めて問題の本質、背景、反応、そして課題を考えてみたいと思います。

確かに報道された事象をみると、舛添氏の言動は目に余るものがあります。政治資金規正法違反にあたるかどうかは、今後の調査や捜査が明らかにしてくれると思いますが、公私混同ととられる行動や公人としてのモラルを疑うような資金使途は、「如何なものか」と感じざる得ません。

しかし、もしもこれがプライベートカンパニーのトップがしたことであれば、どうでしょうか。或いはひとつひとつの事象をみれば、許容できることもあるのではないでしょうか。私は長くサラリーマンをしていましたが、自らを省みると、仲間内での飲食を会議費や交際費として会社負担にしたことは一度ならずもありました。このようなことは多くのサラリーマンが経験していることと思います。ではなぜ、舛添氏はこれほどまでに批判され、バッシングされえたのでしょうか。

一つには舛添氏の行き過ぎた行動にあると思います。自らも反省していたように自民党時代は政治資金規正法での自民党の内規により、歯止めがかかっていたものが、都知事となり歯止めがなくなったことで、政治資金を不正とみなされるような使い方をしたようです。このことは、舛添氏の人としての弱さであり、同時に制度としての問題だと思います。舛添氏が公人として自らを律することが出来なかったことは、残念としか云いようがありません。

しかし、それを許してしまった制度、仕組みは大きな課題であり、改善策を考える問題です。誰もが持つ弱みを防ぐ形を見出すべきではないでしょうか。元来、政治家の公私の区別は非常に難しいものと思います。なぜなら、政治家自身の価値観、考え方、政治思想、政策判断というものは、公私の区別無くその人の個人の成り立ちから生まれるものと考えられるからです。一見政治とは無縁の本から、政治思想のヒントが生まれること、何気ない家族の会話から政策判断をするということがあるのではないでしょうか。とするなら、政治家自身の人格形成や価値観に影響を及ぼすべてが、広義の意味では政治活動をいえるのではないでしょうか。(という理論を展開すると、屁理屈に聞こえます。この理論の成否はここで論じるのは置いとくとしても、)

だからこそ、政治活動の資金使途定義は明確にすべきだし、できれば第3者の判断を仰ぐような仕組みが必要とされると思います。会社組織にある監査役や公認会計士というような外部監視の制度を政治団体、行政や公共団体にも取り入れることがなぜできないのでしょうか。

次にメディアの取り上げ方や人々の反応について考えます。なぜ、この問題を必要に追及され、バッシングとも云える取り上げ方をされたのでしょうか。根本要因は先述のとおりですが、人々の反応、不寛容とも云える現象はなぜなのでしょうか。それは前任都知事の猪瀬氏の問題のあとを受けた選挙で、舛添氏を選んでしまったという自己嫌悪にも似た感情が、人々の寛容性を消し去ってしまったのでしょうか。それとも寛容になれない人々の社会状況、経済環境があるのでしょうか。どちらかと云えば後者が大きいように思います。

個人が主張できるメディアの発達というテクニカルな要素もあるでしょうが、「寛容になれない、他人を許容できない、排他的な」ということの根本には、人々の不安感があるように思います。すべて社会が悪いという革命論を唱えるつもりはありませんが、現在、世界的にいろいろな面で不安感が人々を覆っているように感じます。経済的な将来への不安感、格差社会での不満、移民問題等からの民族間、国家間の不信感、テロへの恐怖、自然災害への恐怖、等々、人々の不満、不信感、不安感が「不寛容」とされる現象の背景にあるように思います。そして、この背景に立つ主張は、ポピュリズム傾向と云えるものであり、その主張の行き過ぎや異常なまでに排他的な主張には、十分に警戒すべきではないでしょうか。

 

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