修道女マザー・テレサは「愛の反対は憎悪ではなく無関心です」と述べたが、イスラム過激派テロ組織は「愛」の集団ではないが、「無関心」でもないのだ。彼らは異教徒を探し出して、それを見出すと、アラーの名で抹殺していく。イスラム教の経典コーランの一節を暗唱させ、コーランを知らない人間を見つけると殺害したダッカ・テロ事件のテロリストはそれに該当する。問題は、彼らは異教徒のわれわれに対し異常と思われるほどの関心を注いでいるという事実だ。
イスラム過激派テロ組織を「愛の集団」と誤解する人はいないだろう。だから、ここでは彼らがなぜ無関心でないのかについて考えてみたい。他者、隣人への無関心が席巻している欧米社会で他者に関心を注ぐ存在が出現し、現代、世界に挑戦してきているのだ。
現代は多様化社会だ。各自がその能力、特性を発揮することを受け入れる社会だ。その一方、マザー・テレサが喝破したように、無関心が席巻している。多様化は価値の相対主義となり、その行き着く先は虚無主義を生み出す。フリードリヒ・ニーチェは「20世紀はニヒリズムが到来する」と予言したが、21世紀を迎えた今日、その虚無主義はいよいよわれわれの総身を完全に包み込んできた。独週刊誌シュピーゲル(6月25日号)は現代社会のナルシズムを特集している。自己への過剰な関心(Ich liebe mich)、ナルシズムも最終的には虚無主義に陥る危険性を孕んでいる。
一方、イスラム過激派テロ組織は他者に対して無関心ではない。その世界観、価値観は絶対的だ。だから虚無主義に陥る危険性は少ないが、別の危険性が出てくる。彼らの教えを受け入れない異教徒への攻撃性、破壊性だ。
アブラハムから始まったユダヤ教、キリスト教、イスラム教は唯一神教だが、神学者ヤン・アスマン教授は、「唯一の神への信仰( Monotheismus) には潜在的な暴力性が内包されている。絶対的な唯一の神を信じる者は他の唯一神教を信じる者を容認できない。そこで暴力で打ち負かそうとする」と説明している。
イスラム過激派テロ組織は異教徒に対して戦闘を挑む。その際、イスラム過激派は聖戦という名目を掲げ、その攻撃性、戦闘性をカムフラージュする。イスラム過激派テロ組織の「関心」には常に異教徒への憎悪が隠されている。
中世時代の十字軍戦争、現代のイスラム過激派のテロは唯一神教の攻撃性を実証する代表的な例だろう。キリスト教の場合、中世時代、十字軍の遠征などを見てもわかるように、キリスト教会はその暴力性を如何なく発揮したが、啓蒙思想などを体験し、暴力性を削除、政治と宗教の分割を実施してきた(ただし、ローマ・カトリック教会の場合、「イエスの教えを継承する唯一、普遍的なキリスト教会」という「教会論」が依然、強い)。
アスマン教授は、「イスラム教の場合、その教えの非政治化が遅れている。他の唯一神教は久しく非政治化(政治と宗教の分離)を実施してきた」と指摘し、イスラム教の暴力性を排除するためには抜本的な非政治化コンセプトの確立が急務と主張している(「『妬む神』を拝する唯一神教の問題点」2014年8月12日参考)。
イスラム過激派テロ組織は他者に対し、コーランの一節をテストし異教徒を見つけ出すことに腐心する。彼らは無関心ではなく、他者の世界に過剰なまで干渉していく。多様性を重視する社会から見れば、イスラム教過激派テロ組織は中世時代から飛び出してきた人間集団のような様相を呈している。
無関心が席巻する欧米社会はイスラム教過激派の異常なこの“関心”に警戒心を抱いてこなかった。日本も例外ではなかった。しかし、バングラデシュの首都ダッカのテロ事件はイスラム過激派テロに対する日本人の関心を覚醒したことは間違いないだろう。
イスラム過激派テロ問題はやはりイスラム教に戻り、謙虚に解明していく以外にない。イスラム過激テロが生じる度、“あれは本当のイスラム教ではない”といった弁明を聞くが、無責任な主張だ。イスラム教徒が過激テロに走る背景について、国際社会はもっと関心を持つべきだろう(「“本当”のイスラム教はどこに?」2015年1月24日参考)。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年7月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。