ペリー艦隊と戦えば勝てたのに屈服した幕府

2016年07月31日 11:00

黒船がやってきたとき、その巨大な武力を前に幕府は屈服し、開国しか選択がなかったと信じている人がほとんどだ。しかし、数百人の武力でいくら装備が時代遅れとは言え人口三千万人の良く組織された国を植民地にできるはずがない。 

当時のアメリカの海軍力はチリやアルゼンチン以下で、遠い日本増派など不可能だったし、海外での植民地を維持できる力も世論の支持もまったくなかったのである。

黒船が来たとき、佐賀藩主の鍋島直正は、神奈川での交渉を拒否して長崎にまわれと強硬に主張すべきだと主張した。それを振り切ってペリーが暴れても鎮圧できるだろうし、また、長崎でなら交渉しようというのに武力行使しても国際世論も米国内世論も味方するはずないから当然の主張だったのである。 

しかし、幕府は翌年また来たら交渉すると約束し、実際にやってきたらほとんど何も準備してなかったから屈服して開国した。 

では、どうして、こんなに簡単に屈服したかというと、腰抜けだったからもあるが、それ以前に、江戸幕府が外国からの攻撃などほとんど考えずに、西国大名に覆されることだけを警戒した政権だったからだ。 

豊臣時代から家康の時代あたりまでの日本は、大陸に攻めていったり、東南アジアと貿易をしたりして強力な海上王国として成長していた。しかし、戦国時代には国内統一が先で主要な大名は陸軍主体だったので、秀吉の大陸遠征も制海権を十分に握れずに失敗したのだが、その反省にたって努力すれば容易に東シナ海から南シナ海の支配者になれたはずだ。 

しかし、徳川幕府はそんなことをすると、西国大名が強大になりそうなので、海外との貿易をほとんどやめ、大名たちにも大型船の建造を禁じた。参勤交代でも大阪より東では船を使うことを禁止したし、小型船では旅程が不確かになりがちというので、薩摩藩などは二か月掛けて歩いて参勤交代した。 

遠州灘などでは沿岸を離れることなく小型貨物船が航行するだけだった。少し船が荒れて正月用のミカンも江戸に運べなくなったとき、遭難覚悟で船を出して大もうけした紀伊国屋文左衛門の逸話でも分かる。

そんなわけで、江戸は水軍の来襲にほとんど防備がなかった。しかも、海岸から二キロほどのところに江戸城があって大奥があり、そのまわりに大名屋敷があって全国の大名の家族が集められていた。 

ペリーの艦隊と幕府とのあいだで戦端が開かれて上陸されても、数日のうちに引き揚げなければ、アメリカ人は全滅していたが、江戸の町は半分くらい焼けて、将軍や幕閣幹部や大名は逃げ出せても、家族たちにはかなり死者も出たでて、人質になるのも出そうなので戦えなかったのだ。 

ペリーが翌年の来航を予告して帰ったあと幕府は大急ぎで大名家族を国元へ避難させ、甲府城あたりに幕府中枢を移せるように手配するとかすればもう少し強硬であれたのだが、何もしなかった。

それまでにやってきた異国船は、幕府がそこまで無防備だとは想像だにしなかったから開国を拒絶されるとおとなしく帰っていたが、ペリーがちょっと威嚇して引き下がらなかったので、あっさりと幕府は開国に応じた。まさに、コロンブスの卵だったのだ。

逆に尊王攘夷でも、まったく将来ともに開国などしないという連中は別だが、長州などは、天保の頃から家老・村田清風のもとで富国強兵に励んでおり、武力で戦うことを覚悟の上で主体的に交渉すべきだという主張だったわけで、それをもの知らずだとか無謀だというのは見当外れだったのである。 

尖閣諸島でもなんでも、場合によっては戦うぞという気持ちとその裏付けがないと、平和的な話し合いもできないのと同じだ。 

 

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

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