さようなら オールド左翼

自民党が分裂選挙になる中、野党連合は宇都宮氏の様な地味な候補でも勝てるチャンスは十分にあったのだが、知名度にこだわって鳥越氏を擁立し、結果として惨敗した。

しかし、今回の事は、二つの点で、日本の多くの人達には良い教訓になったと思う。

一つは、「良心の砦に見えていた『オールド左翼』は、既に時代遅れの存在になっしまっていた」という事であり、もう一つは、「遠くから批判しているだけのジャーナリストは、所詮は格好だけの存在で、彼等に政治を委ねるのは無理」という事だ。

何故鳥越氏は惨敗したのか?

男は一皮むけば同じ様のものだから、女性スキャンダルの事には私は驚いてもいないし、むしろ気の毒だったと思っているが、対応は全く駄目だった。

自分は一言も語らないままに、単純に「事実無根」だとしていきなり法的措置を取っても、「火のないところに煙は立たない」事を知っている一般人がそのまま信じるわけはなく、却って「高圧的」「誠実でない」という印象を与えてしまう。日頃からジャーナリストには「他人には厳しいのに身内には甘い」という批判があるが、今回の鳥越氏のこの対応は、「その典型」として長く語り草にもなるだろう。

何れにせよ、綺麗事だけ話していれば済む評論家やジャーナリストと異なり、政治家にとっては「言行不一致」は致命傷になるので、今回鳥越氏が露呈した様な「胆力のなさ」は、「良識的とみられているジャーナリスト」全般に対する一般人の失望感をも、著しく増大させる結果を招いたと言える。

鳥越氏は、参院選で改憲派が三分の一を失った事に危機感を抱き、「それなら自分が都知事という立場から巻き返しを図ろう」と考えたに違いなく、彼なりにはこういう決意は「老骨に鞭打っての侠気」として前向きの評価を受けられると踏んだのだろうが、これも勘違い以外の何物でもない。「老骨に鞭打てば、途中で倒れる可能性も高く、そのリスクを背負わされる都民にとっては迷惑至極」でしかないからだ。

そもそも「都知事」は「都民の公僕」であり、「都知事選」は「都民が自分達の生活を良くする為に、自分達の公僕を選ぶ選挙」だ。そこに「戦争をしたがっている安倍を倒さねばならない」といった場違いのメッセージを「上から目線」で持っていけば、「都民を馬鹿にするな」という反発を受けるのが至極当然だ。「そんな事は国政の場でやってくれ」「そんな活動の為に都民の税金は使わないでくれ」と言われるのは自明の理だ。

オールド左翼の誕生の背景

終戦直後、多くの日本人、特に若い人達は、これまで信じ込んできた事の多くが全くの嘘だったと知らされ、心の拠り所を失って茫然自失した。日本で絶大な力を握ったマッカーサー元帥は、この機会に日本にキリスト教を広めようと張り切ったが、これは殆ど成功せず、都市部に住む学生や労働者(普通の会社員を含む)の多くは、むしろ米国が毛嫌いする社会主義や共産主義に期待した。

戦争で疲弊した欧州を尻目に、ソ連の第一次五カ年計画は大きな成功を収めた。中国大陸では、農民の支持を失った国民党があっけなく台湾に追い落とされた。植民地支配の象徴だったフランス軍は、戦略・戦術に秀でたホーチーミンによってベトナムから駆逐された。南北に分裂した韓半島では、腐敗して混迷していた李承晩の韓国よりも、建国の意気に燃える金日成の北朝鮮の方が、万事が整然としている様に見えた。この様に、どこを見ても、こういった期待を裏付ける様な萌芽が見られた。

それ故に、一流大学を出て官僚になったり、旧財閥系の大企業に就職したりした友人達を横目に見て、共産党に入党した若者達は、「まあ、頑張ってくれよな。そのうちに、どうせ歴史の必然で、日本も俺達の天下になるんだから」と嘯いていた。(これに飽きたらなかった当時の「意識高い」系の若者達は、より過激な暴力革命路線に走った。)

終戦後、「商工業」は焼け跡の中からしぶとく立ち上がって行ったが、「教育」は国の財政で賄われなければならなかった為に、教員の給料はとんでもなく安かった。こういう背景があったので、マッカーサー司令部が全般的に組合運動を大いに奨励した事もあり、早々と設立された日教組は、最も活動的な組合となった。こうなると、そこに属する教員が中学生や高校生を教えるのだから、教育も全般的に左翼思想を広める場となるのは当然だった。

こういう背景の中で、所謂「進歩的文化人」が、日本の思想の流れをほぼ支配するに至った。万事を米国に大きく依存しつつ、経済再建に忙しかった保守政治家や、官僚、企業経営者が、人文科学や社会科学、ジャーナリズムの世界にかまけている余裕がない間に、この世界は左翼的な思想を持つ人達にほぼ埋め尽くされる状況となっていたのである。

こうして、左翼的な思想が一括して「革新的」「進歩的」と見做され、これと逆方向の思想(一つは「逆コース」と呼ばれた「誇り高かった古き良き日本への回帰志向」、もう一つは「向米一辺倒の経済合理主義」)は「反動的」として攻撃され、或いは「卑しい金儲け主義」として軽蔑された。

時を遡ると、天皇神格化と軍国主義が日本を支配している間、公然とこれに反抗して刑務所にぶち込まれたのは一握りの共産党員だけで、あまたの学者やジャーナリスト、文学者や芸術家は、唯々諾々として体制に協力していた。

従って、彼等は戦後、この贖罪意識故にか、必要以上に自虐的な立場を徹底し、殊更に反体制の姿勢、即ち左翼的な姿勢をとらざるを得なかったのだと思う。中には「どうせ将来は共産主義体制になる可能性が強い」と踏んで、その時に追放の憂き目を得ない様に、あらかじめ点数稼ぎをしておこうと考えた人達もいなかったとは言えまい。

安保闘争の背景

米国は、戦果の見込めない「バンザイ攻撃」や「特攻」を繰り返す日本軍を「狂信的」と考えて恐れ、彼等が草案を作った新しい日本国憲法の条項にも見られる通り、徹底的にその牙を抜くことに腐心していたが、東西冷戦が顕在化した朝鮮動乱が起こると、今度は一転して「日本軍を再建して共産主義陣営に対抗する最前線に立たせる」事を考えるに至った。

こうして、日米安保条約が結ばれ、自衛隊(当初は警察予備隊)が創設された。食うや食わずで、必死になって産業経済の再建に奔走していた経済界は、「朝鮮特需」に救われた事もあり、この動きを歓迎したが、「進歩的文化人」達にサポートされた学生や労働者などの「革新的な人達」は、当然の事ながらこの様な動きに猛反発した。「何故米国の走狗となって、東西の争いの最前線に立たされなければならないのか?」というわけで、これが史上空前の規模に膨れ上がった「安保闘争」の背景となった。

彼等が表向き標榜したのは「非武装中立」だったが、賢い彼等がそんな事が可能だと無邪気に信じたわけはない。その背景には「力の空白が生まれて、そこに共産勢力が入ってきても、社会主義・共産主義の方が最終的には経済が発展して生活もよくなる筈だから、それで良いではないか」という考えがあったのは、当時の状況下では当然の事だった。

そもそも、国際共産主義は「世界中でプロレタリア独裁政権が生まれれば、強欲な資本家が自らの利益の極大化のために起こす帝国主義戦争は無くなり、世界は平和になる」という事を信じていたわけだから、「資本主義国の戦争は悪い戦争だが、共産主義国の戦争は良い戦争だ」という考えが水面下で広がっていたのも、無理からぬ事だった。

しかし、その後に起こった事はこの前提を根底から覆した

「人は、それで豊かになれるという思いがなければ、全力で働きもしないし、創意工夫もしない」「独裁権力は必ず腐敗し、自らの利権を守る為に全体の利益を害する」という「二つの抗し難い事実」の為に、その後共産主義政権は世界各地で崩壊し、或いは崩壊の危機に瀕している。

その一方で、資本主義者はマルクスが予測したよりは理性的で、「独禁法」や「社会保障制度」を導入し、瀬戸際のところで民主主義体制を支えている。

(尤も、「現在のグローバル自由経済体制の中で、米・英流の国際金融資本主義がこれ以上野放図に膨張すると、世界規模で格差が広がり、製本主義は新たな内部崩壊の危機に瀕するのではないか」という危機感が生まれつつあるのも事実だ。この辺の事については、「渇望されるマトモな左翼の登場」と題する2月1日付の私のアゴラの記事を再度ご参照願えれば有難い。)

戦争の危機はなお世界に充満しているが、かつての帝国主義的な理由によるものは最早殆どなく、一時は核戦争による人類絶滅の危機をも招きかねなかったイデオロギー対立(東西対立)も今はなくなっている。

これに代わって、今、全世界が直面しているのは、

1)「宗教」「民族」「納得できない貧富の差」「社会的疎外感」の四つを要因とする「感情の爆発」が招く「無差別テロの脅威」

2)国内の政情不安定を解消する為に各国の為政者が陥る「対外膨張策の罠」

の二つである。

(これに加えて、日本では、当初は軍国主義時代の綺麗事を暴く事で点数を稼いだ所謂「自虐史観派」が、明らかにやり過ぎて、「中・韓におもねている」かのような印象を与え、或いは「中・韓の利益の為に働いているのではないか」という疑惑まで与えて、国内の感情的対立を助長しているという問題もある。)

要するに、こういった大きな変化が世界規模で起こっているにもかかわらず、日本のジャーナリストの多くや、現実離れした学者の世界に閉じこもった「進歩的文化人」の残党は、この現実から目を背け、イデオロギー対立や東西冷戦が尾を引いた「対立軸」をベースとした、旧態依然たる「思考パターン」や「行動パターン」を踏襲している。

言論の自由が保障された民主主義体制下では、その時々の政権は、基本的に「人民から与えられた権力」だと解釈されるべきなのに、これを根拠もなく「人民の敵である権力」と言い換え、「打倒されねばならない」と主張するが如きは、この最たるものであるが、彼等は何ら深く考える事もなく、自分達がずっと以前から慣れ親しんできた古色蒼然たる言辞を繰り返し、これが多くの「遅れている人達」を目覚めさせるのに役立つと、今なお信じているかの様である。

(この辺りの事については、「必要な学者の再定義」と題した1月28日付の私のアゴラの記事を再度ご参照頂ければ有難い。)

何れにせよ、今回の鳥越氏の都知事選での惨敗で、多くの人達の目が現実を直視し、彼に代表される様な「オールド左翼」に最終的に決別して、米国のサンダース氏に比肩しうる様な「新しい時代の左翼」を模索する方向へと進んでいけば、大変よい事だと思う。