必要な「学者」の再定義

books
ビジネスの世界では、「あの人は学者ですからね」と言えば、普通「具体的な目標達成や問題解決の為には何の役にも立たない」という事を意味する。中にはそうでない人もいるから、こういう言い方はフェアではないが、現実には殆どのケースで当たっているので、どうしようもない。学者の中にも「経営者やビジネスマンは金儲けの事しか考えていない卑しい人間」と考えているかのような人達が結構いるので、どっちもどっちだ。

しかし、今日は、私はその事を問題にしようとしているわけではない。私は別に学者に問題の解決を期待しているわけではない。何と言っても実務経験に乏しいのは致し方ないのだから、実行部隊を理論的にサポートするだけでも十分だともいえる。しかし、「事実関係の精査」や「緻密な理論展開」については、プロの筈なのだから、最低限の事をしてもらわなければ困る。

吉見義明さんの場合

一つの典型的な例は中央大学の吉見義明教授だ。彼は「慰安婦は『性奴隷』であり、旧日本軍は『20万人も及ぶ』この様な『性奴隷』を戦場に『連行』した」という著書を世界中に配布した。当時維新の会に所属していた国会議員の桜内文城氏がこれを「捏造だ」としたところ、彼は桜内氏を名誉毀損で訴え、膨大な量の文書を東京地裁に提出して「これは『捏造』ではない(真実だ)。だからこれを『捏造』呼ばわりにした桜内氏の発言は名誉毀損になる」という趣旨の判決を勝ち取ろうと試みた。しかし、東京地裁はこれを認めず、彼は敗訴した。

一般人は、「調査や論理のプロであるに違いない大学教授が1000ページも及ぶ文書を提出したのなら、そこに書かれている事は真実に違いない」と思うだろう。しかし、少なくとも東京地裁はそれを「真実である」とは断定しなかった。別に東京地裁でなくても、そこに書かれた事のうちの多くが、明らかに真実でなかった(嘘だった)り、想像の産物に過ぎなかったり、確証のない伝聞であったり、根拠のない誇張であったりした事は、誰にでもすぐに指摘出来ただろう。しかし、裁判になれば曖昧な話とはならないから、一般人にとっては良い啓蒙になる。

ここで、私は、吉見教授の言論について三つの問題点を指摘したい。これは全て彼の学者としての適格性に疑問を呈するものである。

第一に、「20万人にも及ぶ無垢の若い女性が連行されて性奴隷にされた」と主張するに当って、彼は、「事実関係をよく調査し、疑わしきは除外し、自分が立てた仮説にとって不利な事象でも勇気を持って吟味する」という「学者なら当然しなければならない手順」を踏んでいないのではないかという事だ。これがなされていないのなら、彼は学者としての基本的な能力に欠けるという事になる。

第二に、彼が収集した事実をベースにして上述のような結論に至ったとすれば、その論理的なバックグラウンドが示されていなければならず、それが出来ていないなら、これまた学者としての能力を疑わざるを得ない。特に「性奴隷」という言葉を使うのなら、その定義を明確にした上で、「世界中に今なお何十万人もいると思われる売春婦のうちどの位の人数がこの範疇に該当するか」という程度の事には言及すべきだろう。それがなされていないなら、学者としてそういう言葉を使うのは軽忽に過ぎる。

第三に、この様な研究をして、この様な著書をあらわすに至った彼の動機だが、「学者たるものの本質的な欲求である筈の『真実を究明したい』という気持ちに突き動かされた」故だとはとても思えない節がある。もしそうなら、疑わしき伝聞などは厳しく象捨していなければならない訳だが、全くその形跡がないからだ。それが単なる「売名」の為だったのか、「外国を利する様な何等かの政治的な目的」の為だったのかは分からぬが、「始めから結論があり、それを裏付ける事のみを眼目にしていたのではないか」という疑惑が拭えない。 

真理の追求こそが、学者としての必須条件だ

「学者」と呼ばれるに足るだけの必要最低限の条件は、突き詰めれば、「如何なる場合も真理を追求する」という姿勢であろう。これは、自然科学だろうと、社会科学、人文科学だろうと同じである筈だ。

自然科学の場合は、先ず「観察と実験を通じて既に証明された事」をベースとして自らの「仮説」を立て、この「仮説」が正しかった事を証明する為に、必死になって実験や観察を繰り返す。証明される前には「あたかもこれが真理であるかのような発言」は勿論差し控える。これが出来ない人は「学者」とは言えないし、もし現時点で大学教授であるなら、その大学の名誉の為にも、その職を辞するべきだ。

山口二郎さんの場合

こういう話をすると、それでは、最近「新安保法制反対」のデモ隊を前に「突っ込みどころ満載」の発言をしてくれた北海道大学の山口二郎名誉教授はどうかという質問が出てくるだろう。結論から言えば、やはり「学者」としては問題と言わざるを得ない。この方は結構行動力はあるから、政治家や社会活動家、或いはアジテーターになられるのは良いと思うが、大学教授は辞められた方が良い。教えられる学生に対してアンフェアだからだ。

この人は「政治はどうあるべきか」という事(行政学ではこれは「真理に近い概念」と言っても良いかもしれない)は追求しているのだと思う。しかし、言葉の定義を明確にせず、またその根拠も曖昧なままに、断定的に「結論じみた事」を言うのは、学者として如何なものか? 

かの有名な「安倍に言いたい。お前は人間じゃあない。叩き斬ってやる」という言葉について言うなら、極めて暴力的な言葉故に話題になった「叩き斬ってやる」という言葉については「比喩的表現」として大目にみるとしても、「人間じゃあない」という言葉は大いに問題だ。それでは「人間とは何か?」と問われれば、彼はどう答えるのか? 「学者」が「人間」の定義をするなら、それなりの深遠な「哲学」とそれを支える「論理」が必要だ。それがないのなら、そんな事を言っては駄目だ。

「文明対野蛮、道理対無理、知性対反知性の戦い」と言うに至っては、もう滅茶苦茶で、国語辞典に書かれている「言葉の意味」に対するあからさまな挑戦だから、国語学者が異議を唱えないのが不思議なくらいだ。

これが真実なら、私自身を含め、よく考えた上で集団的自衛権に賛成した人間は、みんな等しく「野蛮で、無理を言い募り、反知性的」だという事になる。その一方で、あまり何もよく分からずに騒いでいるシールズの皆さんは、「文明的で、道理を知り、知性的」だという事になる。一体、誰がどういう理屈で、そんな事を決めたというのだろうか? 山口二郎なる人は、自分が神様にでもなったつもりなのだろうか? 

一般人や政治家が叫んでいるのなら、別に構わないし、宗教家が自分の信じるところを語っているのなら、それはそれで良いが、国民の税金で支えられている国立大学で、学生に「真理への道」を教える立場にある教授の言葉となると、これは大きな問題だ。学長は彼に注意すべきだし、場合によれば彼を罷免すべきだろう。

民衆は昔より賢くなっている

かつての日本では、「資本家や実業家は、自分の金儲けの為に労働者を搾取し、その為に政治家や官僚を買収する。政治家や官僚は、自己の栄達の為に資本家や実業家に奉仕し、国民には平気で嘘をつく。これに対して、学者や言論人、ジャーナリストは、敢然とこれに抵抗し、不正と戦う」と本気で考えていた人達も結構いた。しかし、最近は、多くの人達に、真実がより良く見える様になってきている様だ。

現実には、人によって差はあろうし、しばしばその方向性に疑問がある場合もあろうが、政治家も官僚も実業家も、皆それなりに、世の為人の為に、一所懸命考えながら毎日の仕事をしているのだ。学者や言論人だけが特別に知性的なわけでは勿論ないし、正義の味方であるわけでもない。現在の日本人は、革命前のロシアの農奴とは相当異なる。学者先生方は、現在の一般の日本人を舐めて、愚民扱いにしてはいけない。

松本 徹三