追悼に必要な被害者と加害者の立場

終戦記念日に欠けている視点

終戦記念日の戦没者追悼式における安倍首相の式辞を聞きながら、もっぱら被害者の立場から戦争を考える習性から抜け出せていないことを残念に思っています。国民の多くは自分たちは戦争の被害者だと思っています。国家となると、日本はアジア諸国などに対する加害者です。政治的指導者がそのことを直視しないことは問題です。

戦没者を追悼する式典なのだから、戦没者、つまり戦争の被害者の霊を慰めることが中心になるべきだという理屈は、ものごとの半面だけに対する理屈です。やはり加害者としての日本の反省を抜きには、全体像が見えてきません。

さらに被害者としての国民を考える場合、相手国との戦闘による戦死、原爆投下を含む空襲、つまり敵国に殺されたという側面と、日本という国家・軍部主導の無謀な戦争に巻き込まれた末の戦死、国民生活の困窮という側面があります。国民は国家・軍部の被害者でもありました。

天皇と首相の微妙な違い

天皇陛下の日ごろの言動からみて、「おことば」にある「過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願う」には、被害者と加害者の両面の意味が含まれているのかもしれません。首相式辞は「歴史と謙虚に向き合い・・」としてはいるものの、欧米との戦争の被害者という認識が強いのではないでしょうか。

過去の首相式辞をみると、細川首相の「アジア近隣諸国をはじめ全世界すべての戦争犠牲者」は、かなりおおげさですね。村山首相の「アジアの諸国民に対しても多くの苦しみを与えた」は加害者としての反省が込められています。この流れをその後の首相は踏襲してきたのに、安倍氏になると、「アジア諸国への反省、追悼」が消えました。

今年の首相式辞では「我が国は戦後一貫して戦争を憎み」、「平和への取り組みを積み重ねてきた」とし加害者意識は見当たりません。「加害者意識」を認めれば、アジアの隣国が「それなら慰安婦問題を含め、賠償責任を認めよ」とくることを警戒もしているのでしょう。戦争責任は人道的、倫理的問題というより外交問題にすぐ転化するのが難しいところです。

影が薄くなる「戦後70年談話」

昨年夏の「戦後70年談話」の骨格となった報告書は、「満州事変以後、大陸への侵略を拡大した」、「無謀な戦争でアジア諸国に多くの被害を与えた」と、加害者としての日本の責任を明記しました。それが歴史検証の常識でしょう。

日本がアジア諸国に対する加害者であると、本当に思うようになるのは、敗戦後、かなりたってからだといわれます。「敗戦後、70年代初めまでの25年間、日本国民は、日本に侵略された側のことを考えることがほとんどできなかった」(大沼保昭著、歴史認識とは何か)との指摘があります。「なぜ負けたか」、「負けた責任は誰にあるのか」など、敗戦責任論が戦争責任論の中心だったと、著者は主張します。そうした流れがまだ尾を引いているのでしょうか。

最後に、靖国神社参拝の問題の核心は、日本の針路を踏み外させたA級戦犯が合祀されていることです。これらの戦争責任者はアジア諸国ばかりでなく、国民に対する加害者です。中国、韓国が靖国参拝を問題視することばかり報道され、メディアが「A級戦犯は日本国民に対する加害者だった」と、なぜもっと批判しないのでしょうか。まあ、メディアも戦争報道では軍部の発表を鵜呑みにして、侵略戦争に加担したからですかね。


編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2016年8月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。