孔子流「ダメ上司」との向き合い方

上司の対抗意識に翻弄されることなく成果をあげつづけるには、つぎのプレゼンの前に上司になにかちょっとした助言を求め、経験の多い上司から学ぼうとする部下として印象づける手がある――之は、『ハーバードの人生が変わる東洋哲学──悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』(早川書房)の中にある一文です。

此の本にも書かれている通り、各職場には「要求が多いうえ、気まぐれ」で「扱いにくい上司」も勿論いるでしょう。しかし上記のやり方で媚び諂ってみたところで、そもそも気まぐれな上司であったらば「何だ、こんなこと自分で考えたら良いじゃないか」といった具合に、逆に思ったりもするでしょう。従って筆者が挙げる「手」は、気まぐれな上司や「横柄な上司がいたらどうするか」に対する解決策になるとは、私には凡そ思えません。

『論語』の「述而第七の二十一」に、「我れ三人行えば必ず我が師を得(う)。其の善き者を択(えら)びてこれに従う。其の善からざる者にしてこれを改む」という孔子のがあります。彼は、「三人が連れ立って行けば、必ず手本となる先生を見つけることが出来る。善いものを持っている人からは、之を積極的に学び、善くない人からは、それを見て我が身を振り返り改めることが出来るからだ」と言っています。

反面教師という言葉もありますが、悪い人を見ればまたその人からも、こういうことはすべきではない、という形で反省に繋がることにもなるでしょう。「自分も彼女と同じような欠点を持ってはいないだろうか」「自分が彼のようにならない為にはどうすれば良いのか」等と自分を振り返って見、気が付くところがあれば改めて「善からざる者も師」と割り切り「森羅万象わが師」と思うようになるのです。

冒頭挙げたような問題含みの上司を得た場合、自分はそうならないよう常に自分自身を謙虚に省み、自分自身を向上させようと努める方が、媚び諂って上司の懐に入り込み良い点を付けて貰おうなどと考えるより、余っ程重要なことだと私には思えます。詰まらぬ上司がどうこうと考えるのでなく、己が正しいと思う事柄を常時きちっと遣り上げれば、それで良いのです。

そしてまた、実際その気まぐれ上司が上司として本当に駄目かどうかについても、実は自分の間違いで上司が間違っていると勝手に思い込んでいるだけかもしれません。それ故その辺りを自分で正しく判断できなければ、そもそもがout of the questionです。そうした判断を誤らないようにするためには、それだけ自分が勉強しなければなりません。

自分がちゃんと勉強し、その上でも上司に誤りがあると思うなら、それを上司にも堂々と伝える勇気を持ったら良いでしょう。世の中には、そういう上司もいれば、まともな上司もいるわけで、何もダメ上司の言動に振り回され続ける必要性は、全くありません。

時として人は、上司が一人しかいないかの如く錯覚し、振る舞いがちです。しかし実際はそうではありませんし、またずっと見ている人は見ているわけで、まともな人も必ずいます。

そのまともな人に「あんな馬鹿な上司に媚び諂って…」というふうに見せるよりも寧ろ、堂々とその馬鹿な上司に対して正論を吐いて、まともな上司からは「中々気概ある若者だなぁ」と思って貰う方が、余っ程価値あることだと私には思えます。

BLOG:北尾吉孝日記
Twitter:北尾吉孝 (@yoshitaka_kitao)
facebook:北尾吉孝(SBIホールディングス)