神武東征は日本書紀に書かれてなかった

2017年02月11日 11:30

「世界と日本がわかる 最強の世界史」(扶桑社新書)を昨年の12月に刊行したが、今月末には「日本と世界がわかる 最強の日本史」(扶桑社新書)が発売になります。世界通史と日本通史をワンセットで書きたいという希望を容れていただき、二ヶ月の時間差で発売していただけることになりました。

同じ著者が世界史と日本史とこういうかたちでワンセットで書いているのは、ほかにないといってもいいので、ちょっと、画期的な試みです。

今回の日本史は「アジアの中の日本」を描いてますが、中国中心だったり、韓国の空想的史観を受け入れたりせずに、日本を中心に描いてます。

そのなかで、雄略天皇など「倭の五王」の中国南朝への使節派遣を日本国家の世界外交デビューと位置づけています。卑弥呼の魏への使節派遣は、日本側に記憶がないのですから、九州の女酋長のやったことで、無視して良いものです。

その倭の五王のうち雄略天皇とみられる倭王武の上表文(378年)は、大和朝廷が自らの来歴を語った文章で、同時代の記録で確認できる最古のものです。

それによると、「昔からわが祖先は、みずから甲冑をつけて、山川を越え、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のほうの海を渡って、平らげること九十五国に及んでいます」と言っています。

つまり、畿内国家である大和朝廷が、列島の中で東と西に同じくらいの地域を征服し、朝鮮半島にまで進出したとして半島南部の支配権を中国から認められてます。

もし、九州の王国が何らかの理由で東遷したのが大和朝廷だったら、絶対にこんなこと主張しませんから、大和朝廷にせよ邪馬台国でにせよ東遷説は否定されるべきです。

そして、日本書紀に書かれている天皇家の系図が正しいと仮定したうえで、長すぎる寿命を補正して調整していくと、崇神天皇は3世紀中盤に活躍し、大和朝廷が北九州を支配下に置いたのは4世紀の中盤近くになります。

そうすると、卑弥呼は跡を継いだ宗女(養女か)の壱与が西晋に使いを送った266年より少し前に死んだとみられますから、大和朝廷が北九州にやってくる一世紀近く前に死んでいた人と言うことになります。

邪馬台国が畿内にあったとすれば、すでに3世紀に畿内勢力の勢力が北九州まで伸びていたという調整は不可能ですし、九州にあったのなら大和朝廷との接点はそもそもないということで明快な説明ができますから議論の余地はないのです。

そして、「神武東征は、中世に生まれた伝説だ」『日本書紀』や『古事記』に書いていない」というと驚く人が多いでしょう。

皇国史観の時代の教科書には、神武天皇は大軍勢を率いて日向国の美々津港から船出して大和を征服し日本を建国したと書いていました。しかし、記紀をよく読めば、そんなことはどこにも書かれていません。

「日本書紀」や「古事記」は、大和を統一し、吉備や出雲まで勢力圏に入れた崇神天皇を実質的な大和朝廷の創始者としたうえで、その先祖の磐余彦(神武天皇)は日向出身だが少人数で故郷を出奔し、吉備など各地を経て現在の橿原市と御所市あたりに小さな領地を得たらしいと書かれているだけなのです。

その年代は、もし、崇神天皇が神武天皇が宮崎から大和に移ってから10世代目という記紀の記述を信用するとすれば、だいたい紀元前後の人だと言うことになります。

別にそれは不自然でもありませんから、とりあえずは、信用していいのです。ただし、橿原神宮の創建は明治23年です。民間の運動があって、請願を受けた明治天皇が官幣大社として創建しました。

日向にも古代に起源を持つ皇室の先祖を祀る神社はなく、宮崎神宮も延岡藩が庇護していたローカルな神社ですが、明治6年に明治新政府が県社として公認し、18年に官幣大社としたものです。

つまり、神武天皇による建国を、皇国史観的に、九州の王が大軍を率いて大和を征服し、日本統一国家を打ち立てたといったイメージでとらえることは、南北朝時代以降の粉飾ですが、三世紀に本州中央部を統一して成立し、四世紀に日本を統一して半島南部まで版図に入れた日本国家に発展した大和の小さなクニの創業者が紀元前後にいたということを否定する理由はありません。

いってみれば、ローマやイスラエルの建国伝説みたいなものです。

そして、いわゆる王朝交代説は、左翼的な学界ですら、有力な支持説は少なくなっていす。継体天皇は武烈天皇の死後に仁徳天皇の男系子孫がいなくなり、大臣たちが丹波にいた仲哀天皇の子孫である倭彦命が辞退したので、越前から招聘されたとされています。

もし継体天皇がそれまでの王朝を倒したのなら、華々しい英雄として描かれないとおかしいわけですし、もし、応神天皇が征服者なら、応神天皇の子孫でない倭彦命が皇位継承の第Ⅰ候補になる理由が説明できません。

記紀のもとになった歴史認識は、継体天皇の孫である推古天皇のころにまとめられたものを基礎としています。もし王朝交代があったとしたら、別の書き方だったとみるのが普通です。

つまり、皇国史観的な勇ましいイメージは粉飾ですが、根も葉もない話ではないというように、穏やかに受け取ればよいことです。イエス・キリストの物語でも同じように粉飾がありますが、キリスト教徒が細かいところに粉飾があるからといってむきになってイエスを否定するキリスト教徒も少ないでしょうから、建国の日をめぐる論争に賛否両陣営ともにむきになることもないと思います。

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世界と日本がわかる 最強の世界史 (扶桑社新書)
八幡 和郎
扶桑社
2016-12-24
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

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