な~んにも残らへん巨大な新喜劇はレガシーとなるか

中村 伊知哉

KMDフォーラムで、レジェンド板尾創路さんが、リオ五輪の閉会式で安倍首相が登場した際「服脱ぐの早すぎ!」とツッコミました。土管の中でじっと待っていた安倍さんが、雨に降られて早く脱ぎたかったんじゃないかと思いましたが、「間があかん」との指摘です。

「ぼくら芸人にできるのは、「間」だけ。」という板尾さん。ここでボケる、ここでツッコむ、という「間」は、磨きをかけた芸人のみが体得している。安倍さんに「間」を教えて差し上げればよかったですね。

ちなみに、あの土管、KMDの学生だった清水佳代子さんの「シミズオクト」が作ったものだそうでして、家にあったでかい土管がなくなったと思ったら、リオ閉会式で現れた、とのこと。(シミズオクトにはKMDフォーラムに多大なる協力をいただきました。)

板尾さんに、よしもとが2020東京の開会式をプロデュースすることになったら何をするか伺いました。「そら数千名の芸人を総動員するんでしょう。でもそうなると巨大な吉本新喜劇ができるだけ。」との回答。

巨大な吉本新喜劇。いいですね。開会式でなくてもいいので、見てみたい。2020東京のレガシーは、新国立競技場や新アリーナじゃなくて、「全国民の笑い」のほうがいい。

サニーサイドアップ次原悦子社長は、同ステージで、「五輪開会式なんていらない」としつつ、「健康」がレガシーになればいいと指摘しました。うむ、箱モノやイベントなんかより、みんなでスポーツに参加して、健康や長寿のレベルが上がるほうが五輪開催の価値があります。

さて、フォーラム後も「巨大な新喜劇」がぼくに響いています。それがレガシー=遺産になるのかどうか。というのも、むかし、新喜劇のベテラン俳優が「な~んにも残らへん」芝居を目指すと言っていたからです。

爆笑してもろて、ああおもろかった、けど「な~んにも残らへん」のが吉本新喜劇の価値であると。それを至上とする気高さについて、学生だったぼくは、自分はそんな境地に到れるだろうかと考え込んだ記憶があります。

観客からすれば、新喜劇は、とりあえず笑ろてこましたろ、けど「芸」なんか求めへん、論評の対象にもならへん、ということであり、それは純粋なパンクだと思います。

先日、吉本興業創業者・吉本せいさんの生きざまを描く藤山直美主演「笑う門には福来たる」を見ました。よしもとの話を松竹新喜劇が描くという感動的な座組みで、大阪松竹座の館内をホンワカワッハ吉本新喜劇のテーマが流れてて、キュンとなりました。

ぼくのツボは、藤山直美さんが井上竜夫オマージュで「おじゃましまんにゃわ」をやってくれたこと、いま寛大さんが「ちょっとまってね」をやってくれたこと、ミヤ蝶美・蝶子がプチ漫才をやってくれたこと。・・まぁそれはいいんですが、

松竹新喜劇は松竹ですから、お客さまは、いい芝居、うまい芝居を求めます。「爆笑」にとってそれはノイズですが、そのノイズを期待してくる観客も多い。しかし、そんなもんおまへん、というのが吉本新喜劇。

愉快だがな~んにも残らへん、というのは、アメちゃんみたいなものか、と思いました。甘いけど、なくなったら腹もふくれてへんし、何も残らへん。ビキビキビッキーズでアメちゃんを客席にまいていた人が、新喜劇の「すっちー」になって乳首ドリルを披露しているのは必然だったのです。

な~んにも残らへん巨大なものを遺す。そんなパンクなこと、何やらやってみたい、気になっております。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2017年3月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。