森友事件の「忖度」が示す日本の変わらぬ「國體」

池田 信夫

森友学園の事件は国会で審議するような問題ではないが、稲田防衛相にも延焼して社会部ネタとしてはおもしろくなってきた。本丸の安倍首相は「もし関わっていたら私は政治家として責任を取る」と明言しているので、常識的には(少なくとも意図的には)彼は関与していなかったと思われる。

だが9億5000万円で取得した土地の「ゴミ処理代」が8億2000万円というのは、いかにも不自然だ。国有地を売却したのは財務省の理財局だが、これについて橋下徹氏が「財務省の忖度ではないか」という古風な表現をしていたのがおもしろい。『大辞林』によれば、忖度(そんたく)とは「他人の気持ちをおしはかること」で、その「他人」はかなり目上の人だ。この場合はもちろん首相である。

森友学園の籠池理事長は国有地を安く払い下げてもらうために理財局に直接かけあったようだが、そのとき「名誉校長」である安倍昭恵氏の名前を利用したことは想像に難くない。実際には首相との関係はなくても、理財局の担当者が首相の意図を「忖度」した可能性はある。財務省にしてみれば国家予算100兆円の中ではゴミのような案件で、うるさい右翼を黙らせる「口止め料」としては安いものだ。

この話を聞いて連想したのは、丸山眞男が引用した大正12年末の摂政宮狙撃事件のとき、関係者が責任を取ったエピソードである。

内閣は辞職し、警視総監から道すじの警固に当った警官にいたる一連の「責任者」(とうていその凶行を防止し得る位置にいなかった)の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、卒業した小学校の校長並びに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞の輩をかつて教育した責を負って職を辞したのである(『日本の思想』pp.31-2)。

ここで問われたのは、狙撃した犯人の刑事責任でもなければ、テロを防げなかった警備担当者の責任でもない。彼らを辞職に追い込んだのは、摂政(昭和天皇)や国民の怒りをおしはかる自発的な「忖度」の連鎖だった。

丸山はこの事件について「『國體』という名で呼ばれた非宗教的宗教がどのように魔術的な力をふるったかという痛切な感覚は、純粋な戦後の世代にはもはやない」と書いたが、こうした「忖度」は現代の日本にもある。「國體」を示す記号が、天皇から首相に変わっただけだ。このような「無限抱擁」に実定法で歯止めをかけることはきわめて困難だ。それを動かしているのは法を超える「空気」だからである。