反対意見を封じるのは民主主義の崩壊につながる

荘司 雅彦

私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。

これはヴォルテールの名言のひとつです。自分が反対する意見であろうと不快な意見であろうと、意見を表明する権利は最大限尊重しなければならないという意味です。

このように、多様な意見を表明する権利は民主主義を維持するために不可欠な権利です。

戦前の日本がいい反面教師です。共産主義的思想が徹底的に弾圧され、発言者が処刑されることもありました。国から特定の考えを押し付けられ、それに反する表現行為が暴力によって禁じられていたのです。旧ソ連や現在の北朝鮮でも同じような状況だと想像しています。

民主主義というのは、「国家の最終的決定権」が主権者である国民にあるという制度です。

主権者である国民には人それぞれの意見があり、それを余すことなく表現できることにより民意が形成され民主主義が機能するのです。それゆえ、憲法21条によって保障された「表現の自由」は、人権規定の中でもとりわけ重要な人権と位置づけられています。

もちろん、自分の立場に反対する意見を受容する必要まではありません。キリスト教原理主義の人たちにとって「進化論」は受容し難い理論でしょう。神が自分の姿に似せて人間を作ったという考えを確信している人たちにとって、人間は猿が進化したものだという考えは受け入れがたいものでしょう。ですから、反対意見や不快な意見を受容する義務はないのです。

しかしながら、「受容できない」ということと発言者を攻撃して発言できないようにするのは全く次元が異なります。攻撃して発言する権利を封じてしまうのは”多様な意見の存在”を前提とする民主主義を破壊することに繋がるからです。

民主主義の実現の場である国会で、自分たちの意見に反対するという理由で発言者にヤジを飛ばしている光景は見るに耐えません。小学校のクラスルームの時間でもあれほどひどいヤジは飛ばないでしょう。

先般、ある会合で順番に発言する機会がありました。私が発言している最中に粗暴な言葉で反対意見を差し挟む人物がいたのはとても残念なことでした。ある物事を好意的に捉えるか敵対的に捉えるかは各人の主観です。自分の主観に反するからといって、他人の発言の最中に異を差し挟むのは明らかにルール違反です。

SNSでも時として原理主義的な批判コメントを目にすることがあります。ある人の意見に対して、「自民党が悪いのだ」「共産党が悪いのだ」「トランプが悪いのだ」…等々、原理主義的な批判コメントが付されていることがあります。きっと、意見を書いた人はコメントを見て不快な気持ちになっているだろうな〜と想像してしまいます。

私も以前は、批判的コメントを書いてしまった経験があるので偉そうなことは言えません。しかし、今は反省して批判的なコメントは書かないよう心がけています。自分の意見は自分のスペースで書けばいいのです。それが原理主義的な見解であっても自分の意見として表明する分には何ら問題はありません。他人のコメント欄を荒らしたり、そこで勝手に自分の意見を長々と書くのは明らかにマナー違反だと私は考えています。

SNSで炎上が起こると、一気に同調者が増えて反対意見を書くことが出来ない雰囲気になってしまいます。臆病な私には、炎上中に敢えて反対意見を書くような勇気はありません(汗)炎上が収まるまで静観するのが精一杯ですが、反対意見を書いた勇気ある人物を陰ながら応援しているます。

自分と正反対の考えや嗜好を尊重することが対人的な共感力を育み、マクロ的には健全な民主主義の維持・発展に資するものと考えています。受容までする必要はありませんが、妨害したり押し潰すようなことは決してすべきではないと思います。一方的な意見が大きな流れとなって反対意見を押しつぶしてしまう怖れのある今日、一人でも多くの人々が、このことを心の片隅に留めていただければ幸いです。

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荘司 雅彦
ディスカヴァー・トゥエンティワン
2017-06-22

編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年6月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。