「国のために死ぬ」というパラドックス

池田 信夫

篠田英朗氏の記事で言及されている朝日新聞の記事を読んで、私も気分が悪くなった。長谷部恭男氏が批判しているのは、安倍首相のビデオメッセージの次の部分だろう。

命懸けで24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれというのは、あまりにも無責任です。

これが安倍改憲論のコアである。長谷部氏の「自衛隊を憲法に明確に位置づけるだけで、現状は何も変えない」という批判は誤っている。「憲法に明確に位置づける」ことが最大の変更なのだ。これを彼は「自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません」というが、彼はセンチメンタルな情緒で死ねるのか。

「国のために死ぬ」というのは、近代国家の最大のパラドックスである。歴史上多くの国では戦争は君主のために死ぬものであり、兵士は傭兵だった。これに対してデモクラシーでは、個人の尊厳を守る手段として国家が存在するのであって、その逆ではない。では国家という手段を守るために個人の生命を犠牲にする軍隊は、どう位置づけられるのだろうか。

ナポレオンはフランス革命の「国民主権」というフィクションを利用し、徴兵制による国民皆兵で、国のために戦う義務を全国民(男子)に負わせた。ここでは(集合体としての)国民は自分を守るために死ぬのでパラドックスは解決され、ナポレオンの軍隊は君主国の傭兵よりはるかに強かった。

これがデモクラシーの強みだった。日米戦争を起こした日本軍は「個人主義のアメリカ人が天皇陛下のために命を捨てる皇軍に勝てるはずがない」と考えたが、それは逆だった。戦争で最強なのは、戦う国民=守られる国民であるデモクラシーなのだ。

だが戦後、多くの先進国が志願兵に移行した。自衛隊は最初から志願兵だけで、他人のために死ぬ軍隊である。幸い日本は戦後、平和だったのでリスクは大きくなかったが、これからはそうは行かない。自衛官の士気をどう維持するかは深刻な問題である。彼らは「憲法違反のあってはならない軍隊だ」といわれても、国のために死んでくれるのだろうか。

長谷部氏は「自衛官の尊厳がコケにされている」というが、自衛官をコケにしているのは彼を初めとするガラパゴス憲法学者である。安倍提案を「ありがたい」といった統合幕僚長のように、自衛官は自分たちの名誉を守る改憲案を歓迎しているのだ。