「AEDを使えば助かった?」某新聞社の無神経記事

中村 祐輔

私は絶対に某新聞系の記事は読まないが、ネットニュース記事のタイトル「女子マネジャー死亡、『呼吸』誤解? AED使ってれば」に目を取られて、思わず、読んでしまった。そして、腹が立った。

新潟県のある高校の野球部の女子マネジャーがランニング直後に倒れて、その後死亡した件で、倒れた時に心室細動を発症していた可能性があり、自動体外式除細動器(AED)を使っていれば救えたかもしれないという内容だった。「AEDを使ってほしかった。助かったかもしれないと思うと、つらくて悔しい」という父親のコメントも付け加えられていた。野球部監督は息をしていると判断して、救急車の到着を待ったらしい。記事では、その時にAEDを使っていたなら助かっていた可能性を指摘し、AEDに対する理解を深めようというとするものだった。

病院到着時に心室細動状態だったので、AEDの適応になるはずだというロジックだが、死の直前には多くの場合、心室細動状態となるので、倒れた時点で心室細動が起こっていた証などどこにもない。監督が息をしていると判断したのが、「死戦期呼吸」(わかりやすくいうと顎は動いて呼吸しているように見えるが、胸は膨らんでいない)というものだった可能性があり、その判断が正しくなかったことを暗に示唆していた(と私は思った)。ウィキペディアには「医療関係者以外が見分けることは難しく、呼吸していると判断されてしまうことが多い」と書かれている。

この新聞社は、一般的にAEDの適正な利用を啓蒙しただけと詭弁をふるうだろうが、この監督の胸中を慮ると腹立たしくてならない。父親の「悔しい」思は、誰に向けられているのか?一般の方が、心室細動だと判断して、AEDを使う決断をすることなど容易ではない。息をしている(と見える)ような状況で、心室細動でAEDを利用すればなど、思いつけと言う方が酷だ。また、このような状況では、呼吸補助をしない限り、心臓だけの処置をしてもだめなのだ。この記事は、あまりにも短絡的すぎる。そして、もし、AEDを利用しても助からなかったら、「AEDの利用は適切だったのか」と非難されていたかもしれない。この監督は救急車を呼んでおり、非を求めることなど常識的にはありえないのだ。

また、娘さんを突然亡くされた父親に「AEDを使っていれば助かっていたかもしれない」と、ぽっかりと空いた傷に塩を塗り込むように苦痛を与えるような記事を書く神経が、私には理解できない。もちろん、この監督は、この記事によって心が深く傷ついただろう。、「死戦期呼吸」を知らなかった「あなたの判断が誤っていなければ助かったかもしれない」と匕首を喉元に突き付けられたのだから。

「AEDの設置が広がっても突然死が後を絶たない背景には、AEDの性能についての理解が深まっていないことや、卒倒などの場面に遭遇すると、落ち着いて使いこなせない実態がある」と書かれていたが、医療関係者でない人が、目の前で人が倒れた時に、落ち着いてAEDを使うことができないのは当たり前だろう。一般の人たちには、脳に問題があって倒れたのか、心臓に問題があって倒れたのか、判断できる材料などないに等しいのだ。そして、AEDを利用しても、突然死がわずかに減るだけで、無くなることはないのだ。浅い知識で「AEDの利用=突然死がなくなる」ような印象を与えようとしている。

AEDの啓蒙活動だと正義の旗を振ったつもりだろうが、あまりにも関係者に配慮のない無神経な記事だと私は感じた。監督に対する悪意が満ち溢れているような気がする。もし、そんな意図がないというなら、記者としては、あまりにも稚拙な記事だ。いまさら、驚きはしないが、この新聞社の遺伝子は変わらない。


編集部より:この記事は、シカゴ大学医学部内科教授・外科教授、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のシカゴ便り」2017年8月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。