枝野代表の説明責任を果たしてほしい:砂川事件最高裁判決を読む

2017年11月22日 11:30

代表質問に立つ枝野氏(立民党公式ツイッターより:編集部)

国会の代表質問で、枝野幸男・立憲民主党代表が、安保法制も集団的自衛権も「立憲主義違反」だと断ずる演説を行った。

枝野代表は、憲法問題に入ると、国内政策に関するときの語り口を突然変え、「まずは、今ある憲法をちゃんと守ってから言え!」と恫喝するかのような雄たけびをあげた。しかも枝野代表は、手続きを踏んで改憲しても、「立憲主義違反を事後的・なし崩し的に追認することになるので、到底認められない!」、とも叫んだ。万が一改憲がなされても、その結果を認めない、という宣言である。

また、相変わらず反米的なトーンが顕著であった。「日米同盟はケンゼンに強化発展させるべき」という断片的な一言は、「もっとも、ケンゼンな同盟関係であるならば・・・」、とつなげ、「ケンゼン」「ケンゼン」と繰り返して、結局、日米同盟が不健全であることを強く示唆した。

枝野代表は、自らが真の「保守」で、真の「リベラル」で、真の「立憲主義者」であることを誇る。しかし、結局、冷戦時代の「革新」と同じように見えるのは、国政の要の一つである外交安全保障分野で体系的な政策を打ち出さず、ただ反米主義のアピールで、支持者層を確保しようとするからだ。

それにしても立憲民主党は、「立憲主義に違反する」のがどんな状態であるのか、なぜ安保法制や集団的自衛権そのものが「立憲主義に違反する」のかについて、まだきちんと体系的で精緻な議論を提示していない。立憲主義者を誇るのであれば、まず責任をもってそれらを説明すべきだ。

私は、拙著『集団的自衛権の思想史』で、集団的自衛権違憲論が1960年代末の特有の時代の政治的産物でしかなかったことを論じ、拙著『ほんとうの憲法』で国際法と調和するのが本来の憲法の姿であることを論じた。つまり私は、枝野代表によって完全否定されている存在である。

私は、攻撃的な憲法学者に、「三流蓑田胸喜だ」「日陰者だ」と誹謗中傷されている

憲法学者の中には、集団的自衛権は違憲だとは言えない、と表明したがゆえに、執拗な脅迫にあい、警察官とともに通勤せざるを得なくなった方もいる。

立憲民主党が、一方的な思想統制に加担しているわけではない公党なら、断言調で他者を否定する行為について、自らの言葉でしっかりと説明する責任がある。

私を含めて多くの方々が、立憲民主党が、どのような精緻な議論で、自己の主張を裏付けるのか、大きな関心を持っている。

*****

前回のブログでは、矢部宏治氏の反米ナショナリズムの誇張と扇動の言説について書いてみた。その中で、砂川事件最高裁判決が、「統治行為論」に逃げて、日米安保条約の違憲性の判断を回避した、とする見方にも、疑問を呈した。

「立憲主義」の理解にあたって、最高裁判所判決を知るのは、非常に重要なことだろう。そこで、砂川事件最高裁判決(1959年)について、具体的に見てみたい。個別意見にも幾つかの有名な文章が多々あるが、あえて最高裁全体の見解として提示された判決の主文に絞って、見ていきたい。主文は4千字余り程度の量の文章だ。誰でも簡単に読める

判決は、まず9条の検討から入る。

「そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。」

ここで書かれているのは、9条が、侵略国家としての日本の体制転換を図る政策的意図で作られたものであることの確認である。

「しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」

ここで書かれているのは、9条が自衛権を否定するものではないことの確認である。戦争放棄が、自衛権の放棄ではないことの確認であると言ってもよい。

「すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。」

ここで書かれているのは、「戦力」不保持は、「諸国民の公正と信義に信頼」で補って、「われらの安全と生存を保持する」、という憲法前文の「決意」の仕組みの確認である。

それは、地方裁判所判決(伊達判決)のいうように、

「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。」

ここで書かれているのは、「諸国民の公正と信義に信頼する」ということが、他国に安全保障を求めることを含む、広範な措置でありうることの確認である。

「憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体なつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」

ここで書かれているのは、9条が侵略国家であった日本の体制転換を図る国内法根拠を作るものであったことを鑑みれば、日本に駐留しているからといって、外国軍が9条2項が禁止する「戦力」に該当するような可能性はない、ということの確認である。

「アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。しかるに、右安全保障条約は、日本国との(サンフランシスコ)平和条約と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、(サンフランシスコ)平和条約六条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。」

ここで書かれているのは、日米安全保障条約がサンフランシスコ講和条約と一体のものとして締結されたということであり、つまり米軍の駐留は日本の主権回復と矛盾しない形で国際的に認められたということの確認である。

「右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。」

ここで書かれているのは、日米安全保障条約が、「わが国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利」にもとづいて締結されたものであることの確認である。判決は、それは国際連合憲章にもそっており、国内手続きも不備なくとられて、成立したものであることも確認している。

「ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。」

この箇所が、砂川事件最高裁判決が、「統治行為論」を採用した、と後に憲法学界で言われるようになる根拠である。ただし、この箇所において、判決は、違憲審査を放棄していない。「一見極めて明白に違憲無効である」と認められる場合には、やはり違憲判断を下すだろうことが、示されている。ただ、三権分立の観点もあるだろう、裁判所が国会の権限の範囲に入り込むことには慎重さが必要だ、ということが書かれているにすぎない。

「本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあだかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起されたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法九条二項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。」

ここで書かれているのは、これまでの判決主文の内容の要約であり、結論である。米軍駐留の合憲性が再度確認されており、それはまず米軍が外国軍であるからだからだが、同時に米軍が「国際の平和と安全の維持に寄与する」ものだと認定されるからであり、「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼」するという憲法の精神に合致したものだと認定されるからである。

「なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和二七年二月二八日その調印を了し、同年三月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあつたが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和二七年三月二五日に行政協定が憲法七三条による条約であるから、同条の規定によつて国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月二六日に行政協定は安全保障条約三条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法七三条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約三条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかつたからといつて、違憲無効であるとは認められない。」

ここで書かれているのは、日米安全保障条約の実施にあたって定められた諸々の行政協定について、いずれも条約の委任の範囲内のものであるので、違憲性はない、という判断の明示である。条約の行政執行には、少なくとも当時の時点で、違憲性が認められない、ということの確認である。

「原判決(伊達判決)が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条二項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法二条を違憲無効としたことも失当であつて、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。・・・この判決は、・・・裁判官全員一致の意見によるものである。」

最後に書かれているのは、日米安保条約を違憲と判断した地方裁判所判決(伊達判決)の否認という結論であり、その判断が最高裁判所裁判官全員の一致した意見として決せられたものだ、ということである。

最高裁判決の論理の筋道は明確であり、判断をせずに統治行為論に逃げ込んでいるというのは、かなりうがった読み方ではないだろうか。

日米安保条約が、「平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認している」ことに基づいているという最高裁判所の論理は、明晰だろう。

もちろん、そのうえでなお2015年安保法案の合憲性に関する議論はあってもいいだろう。しかし少なくとも国会で集団的自衛権は違憲だ、と高らかに宣言した立憲民主党の枝野幸男代表の断言は、論証不要なまでに自明とまでは言えない。

枝野代表は、他人の議論を完全否定するのであれば、その理由を明示する、という公人として最低限の責務を果たすべきだ。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2017年11月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。

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