山尾志桜里議員の「自衛権=透明人間」論に呆れる

2017年11月25日 10:30

山尾氏公式サイトより:編集部

前回のブログで、「立憲主義違反」を国会で叫ぶ枝野幸男代表について書き、公人の責任として、きちんと議論をしてほしい、と書いた。

その後、山尾志桜里衆議院議員が、関連したことを語っているインタビュー記事を見つけた。山尾議員は、立憲民主党員ではないが、同党の会派を代表して衆議院憲法審査会に参加するという。そこで記事を読んでみた。そして、呆れた。

自衛権に歯止めをかけることが必要だと強調している。そして自衛権を個別的自衛権だけに限定することが歯止めになるのだという。山尾議員によれば、「自衛権は今、透明人間のような存在で実態がない」ので、今は歯止めがないのだという。自衛権を個別的自衛権に限定する改憲を行うと、初めて自衛権に「実態」が生まれるのだという。
意味不明だ。

自衛権は、国連憲章51条に記載されている国際法上の国家の権利である。日本は国連憲章を批准し、日本国憲法98条の条約遵守義務にしたがって、それを遵守している。日本国憲法に自衛権の記載がないからと言って、それを不思議に思うほうがどうかしている。まして制限がなく「透明人間」になっているというのは、理解不可能な話だ。

自衛権の行使に対する制限は、国際法にしたがって行うのが当然であり、本来それ以外の方法などない。国際法では、自衛権は必要性と均衡性の原則によって制約されており、慣習国際法にもしたがった厳密な運用規範が国際的に成立している。自衛権が「透明人間」であるというのは、国際法の存在に対する冒涜である。

自衛権が「透明人間」になっているのではない。山尾議員が、国際法を知らないか、無視しているだけだ。

憲法で自衛権という国際法上の概念を制限するというのは、本来、「民法に殺人罪の規定がないので、民法に殺人罪を入れよう」と言うようなものなのである。百歩譲ってそれをやるとしても、実現するまでは「殺人罪は透明人間のようだ」などと言うのは、滑稽である。

山尾議員には、しっかりと国際法規範もふまえたうえで、あらためて個別的自衛権を徹底的に擁護することが、なぜ「歯止め」になるのかを、きちんと説明してもらいたい。

個別的自衛権性善説に立って、集団的自衛権だけを違法にして、自衛権を制限したつもりになるというのは、うちの日本村ではリンゴは果物だが、バナナは果物ではない、と主張してみせるようなものなのである。百歩譲ってそれを言うとしても、言わない者を「反立憲主義だ」と糾弾するというのは、滑稽である。

山尾議員は、過去の特定の時代の内閣法制局見解を永遠の憲法規範とみなしつつ、国際法は無視する。もはや、なぜ集団的自衛権が違憲で、個別的自衛権だけが合憲なのか、ということを議論するつもりもないようである。・・・昔、内閣法制局がそう言っていたから。そのほうが首相の権限を制限できるから。だって権力を制限するのが立憲主義だから・・・。驚くべきことに、それ以上の議論がない。

山尾議員は言う。

「私は個別的自衛権を深化させるべきという考えです。これによって自衛権の行使に明確な歯止めをかけることができる。」

この盲目的な個別的自衛権=絶対善、集団的自衛権=絶対悪の信仰はいったい何なのか。なぜ、そのような法的裏付けを欠いた信仰を持つに至ったのか、きちんと説明すべきだ。

個別的自衛権だけでも、たとえば日本の艦船などがあれば、「地球の裏側」であっても、自衛権の主張をすることができ、濫用の危険性も残る。集団的自衛権として違法な行動は、地球の裏側でも、日本近海でも、違法だ。こうした国際法規範の枠組みを無視し、どこまでもガラパゴス憲法論を貫き通すことの意味は何なのか。個別的自衛権=絶対善、集団的自衛権=絶対悪、という今や内閣法制局ですら放棄した法的根拠を欠いた盲目的な信仰を振りかざしたうえで、「自衛権に歯止めがかけられる」、などという壮大な物語を披露するのは、間違っているだけでなく、極めて危険なものではないか?

戦後しばらくの間は、日本でも、山尾議員のような議論はなかった。満州事変からの泥沼が、集団的自衛権などではなく、個別的自衛権の濫用によって起こったことを、日本人の誰もがよく知っていたからだ。冷戦時代特有の環境の中で、1960年代末に集団的自衛権違憲論が生まれた(拙著『集団的自衛権の思想史』参照)。

もっとも、司法試験業界には冷戦終焉の余波などなかったのだろう。そこで憲法学の基本書を手掛かりに国際社会を見る癖がついている方々は、いまでも「団塊の世代中心主義」に陥る。その特徴は、国際感覚の欠如である。山尾議員の国際法を無視するガラパゴス主義は、その典型だ。自分自身を律することを忘れ、国際的な規範を無視し、ただ「権力を批判する者が立憲主義者」と唱え、平和主義者は必然的に反米主義者だ、と信じる安直な態度が、それなのである。

今の日本に本当に必要なのは、国際社会の常識を取り戻し、国際法に従って、まずはすでに自衛権に制約があることを理解することではないだろうか。つまり山尾議員に、国際法を勉強して、実践してもらうことではないだろうか。

憲法が、海洋法や難民法の規定を持っていないからといって、不思議に思う人はいない。それらの法規が「透明人間になっている」と主張する人はいない。ではなぜ自衛権(武力行使に関する法=jus ad bellum)についてだけ、「国際法などは透明人間だ、すべて憲法学に仕切らせろ」、といった態度をとるのか。

本当に特異なのは、9条ではない。9条に異常なロマン主義を投影する人たちのメンタリティである。「国際法は黙っておけ、すべて憲法学に仕切らせろ」、といった態度を「立憲主義」などと言いかえて正当化する日本の法律家たちの態度が、異常なのだ。

山尾議員は、山尾議員が理想とする行動をとる憲法裁判所を設置して、首相の独断専行を防ぐと言う。立憲民主党の憲法調査会が第1回会合で最初に講師として招いたのは、あの長谷部恭男教授だ。

(立憲民主党サイト)長谷部恭男早大教授を講師に招き、第1回憲法調査会を開催

枝野氏と長谷部教授のダブスタ:枝野氏指導の憲法学者小嶋氏の補足

長谷部恭男教授の「立憲主義」は、集団的自衛権の違憲性を説明しない

長谷部恭男教授の「法律家共同体」=「芸人」認定協会としての「抵抗の憲法学」

長谷部教授は、初代憲法裁判所長に内定なのか。その他、憲法学者たちが続々と裁判官として名前を連ねることになるのかもしれない。

山尾議員が理想とする憲法裁判所が設置されると、安保法制は即廃止、その他、国際法にしたがった立法措置や条約批准なども、次々と違憲になっていくのだろう。

山尾議員は、どうやら砂川事件最高裁判所判決も「統治行為論」だと考えているようだ(前回ブログ記事で書いたように、私に言わせればこれはイデオロギー的なデマなのだが)。そうなると山尾議員が夢見る憲法裁判所とは、日米安全保障条約に違憲判断を下すようなものかもしれない。山尾改憲は、外交安全保障政策などの大改造計画になり、国政には大混乱が訪れるだろう。

もちろんそうなっても、山尾議員だけは、「首相権限を制限したので立憲主義が発展しましたね」、と喜ぶ、という筋書きになっている。

山尾議員も、山尾議員の倉持麟太郎政策顧問も、枝野幸男立憲民主党代表も、弁護士である。山尾議員の改憲案は、いわば弁護士・憲法学者の連合体による日本の外交安全保障政策の大改造計画である。

司法試験受験者で、国際法を受験科目で選択する者は、わずか1.6%であるという。勉強が大変な割には点数が伸びない科目なので、予備校ではこぞって選択しないことを勧めているようだ。

日本の法律家の約99%は、「国際関係法(公法系)」を、受験科目レベルですら、勉強していないのである。受験に役立たないため、大学で国際法の授業に出ることもしない。実務についてからも、日本では国際情勢から縁遠い。国際機関の法務部に、日本人は驚くべきほどに存在しないため、外国に留学しなければ、国際公法に詳しい知り合いもできない。

つまり、国際法の話を、憲法の基本書を引っ張り出してきて解説してしまうガラパゴスな方々の代表が、司法試験受験組の方々なのである。山尾議員は、そして山尾議員の倉持麟太郎政策顧問も、枝野幸男立憲民主党代表も、そんな日本の法律家の純粋な典型例なのであろう。

もちろん、弁護士なら、それでもいい。しかし国政を預かる政治家は、それでは困る。


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2017年11月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。

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