日本社会はなぜ相撲関係者に高い倫理を要求するのか

2018年01月03日 11:30
写真は産経ニュースから引用

写真は産経ニュースから引用

ワイドショーが主導した大相撲の暴力スキャンダルにおいては、貴ノ岩に暴力を加えた日馬富士の倫理、暴力を止められなかった白鵬と鶴竜の結果責任、観客に万歳三唱を呼びかけた白鵬の倫理、日馬富士の師匠にあたる伊勢ケ浜親方の結果責任、暴力を加えられるに至った貴ノ岩の倫理、相撲協会への報告を怠た貴乃花親方の責任、相撲協会の調査に協力しなかった貴乃花親方の倫理、国民の信頼を損なった相撲協会八角理事長の結果責任といったように様々な関係者の倫理および結果責任が問われています。事案が単純な暴力事件である中、なぜこんなに多くの関係者に事件が波及してその倫理や結果責任が問われるのか、普通に考えれば極めて不可解であると言えます。この記事では「相撲」という格闘技の歴史における「大相撲」の存在の経緯を踏まえた上で、この問題の本質について分析してみたいと思います。(冒頭の写真は産経ニュースから引用)

相撲の起源と歴史

英語で【sumo wrestling】と表現される相撲は、その互いに組み合う格闘スタイルから世界最古の格闘技であるレスリングの一種としてとらえられていますが、実はその起源もレスリングにあると考えられます。レスリングは、文明の拡がりと同じように、古代メソポタミアを起源として次のような経過で世界中に伝えられていきました。

古代メソポタミア(紀元前2600年):ギルガメシュ叙事詩において、ギルガメシュが後に親友となるエンキドゥ、そしてライオン・猛牛とレスリングで戦ったとことが記されています。

古代エジプト(紀元前2400年):ファラオの使用人の共同墓でレスリングを描いた絵画が発見され、ベニハッサン村の墳墓ではレスリングの技が描かれた絵画が発見されました。

古代インド(紀元前5世紀):マハーバーラタ叙事詩において、アーリア人の侵入によりメソポタミアのレスリングが在来の格闘技と融合してクシュティーと呼ばれる格闘技に変化しました。

古代ユダヤ:旧約聖書にユダヤ人の祖であるヤコブが天使とレスリングを行って勝利したことが描かれています。レスリングは神の祝福を受ける競技として捉えられていました。

古代ギリシャ:古代ギリシャでレスリングは人気の競技でした(イリアス・オデュッセイア)。紀元前700年に古代オリンピックの最初の正式競技となったのもレスリングです。トーナメントで勝者を決めるスタイルはこのとき誕生し、レスリングの勝者=最強の男とされました。ギリシャ神話のゼウスとクロノスの戦いもレスリングと解釈されています。有名なヘラクレスはレスリングのチャンピオンです。

古代ローマ:古代ギリシャのレスリングを踏襲し、残虐性を排除したスポーツとなりました。

古代中国:1世紀頃にシュアイジャオというレスリング系の格闘技が成立しました。

人間には男性ホルモンの一種であるテストステロンという物質が分泌され(女性にも僅かに存在します)、他者に対する攻撃的意識を促進させます。血を見ると興奮するという現象もこのホルモンによるものであり、この人間の本能がレスリングを行ったり観戦したりする大きな原動力になったと考えられます。また、人間には最上級の事物を把握しようとする貪欲な知的好奇心があり、力が世界を制していた時代に「最強のものは誰か」ということは大衆の大きな関心事であったものと推察されます。このようなメカニズムでレスリングは世界に拡散していったものと考えられます。

さて、このようなレスリングの伝承の中で、中国のシュアイジャオの影響を受けて誕生し、独自の発展を遂げたとされるのが日本の相撲です。日本で最初の相撲として認識されているのが、日本書紀の垂仁天皇記にある次のようなエピソードです。

垂仁天皇7年7月7日
当麻の村に当麻蹴速(たぎまのけはや)という勇敢で力が強い者がいて「強いものを見つけて生死を問わずに力比べをしたい」と言ったという話を聞いた垂仁天皇は、「誰か勝つ者はいないか」と側近に聞いたところ、出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)という勇士がいることがわかったので、早速呼びよせて二人に角力(相撲)をさせました。互いにキックの応酬で闘った結果、野見宿禰が当麻蹴速のあばらを踏み砕き、腰を踏みくじいて殺しました。天皇は当麻蹴速から土地を没収し、野見宿禰に与えました(写真はこの取り組みがあったとされる大和の相撲神社の四角い土俵です)。

この生死をかけた力比べのエピソードの存否は別として、相撲の原型は文字通り「互いに殴り合う戦い」であったこと、そして明らかに「最強のものは誰か」という興味の下に相撲が行われたことがわかります。

奈良時代になると、相撲は宮中における余興の一つとして行われるようになり、毎年7月7日に開催される七夕の節会(せちえ:季節の会)の定例行事となりました。七夕の節会は7月15日までのお盆期間に先祖を迎える前に穢れを流す神仏習合の神事であり、平安時代には、余興で行われていたはずの相撲がいつのまにか神事の一部として認識され(相撲節会)、地方に広まっていきました。

鎌倉時代・室町時代になると、相撲節会は廃絶され、武術の鍛錬としての武家相撲が盛んとなりました。そして、平和な江戸時代になると、武家相撲は廃れて、興行としての勧進相撲が盛んになります。これは神社仏閣の資金調達を目的とするものであり、江戸の街にはブロマイドとしての力士の浮世絵(相撲絵)が出回り、庶民が観戦する人気スポーツとなりました。

明治時代になると、興行としての相撲は一旦廃れますが、その後日本相撲協会が組織されると「大相撲」という興行が行われ、再び人気を取り戻して現在に至るようになります。

大相撲は神事か?

「大相撲は神事であり、神事に参加する相撲関係者には高い倫理観が要求される」という理解が日本社会に深く根差しています。本当に大相撲は神事なのでしょうか。

大陸から伝わった最初の相撲は力を競い合った単なる戦いであり、それが宮中のエンタとなり、いつのまにか神事と認定されるようになったという経緯を見れば、明らかに元来の相撲は日本の神が司る存在ではなかったものと言えます。しかしながら、相撲は特定の事象の生起を予測する占いになるという信仰が日本中の神社に広く浸透し定着した事実から考えると、相撲を神事とみなしてもおかしくはありません。宗教の本質はその発祥ではなく信仰にあるからです。現在も日本の各地方に脈々と存在している神事相撲には多くの信者が存在し、これを否定することはできません。

さて、神事である相撲を観客に見せる興行である大相撲が神事であるかと言えば、それを肯定するのに十分な根拠はありません。大相撲の実態は、江戸時代から受け継がれた明らかな「興行相撲」です。確かに、大相撲を運営する日本相撲協会の定款には「神事」という言葉を用いた次のような条項があります。

日本相撲協会定款
(目的)
第3条 この法人は、太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させるために、本場所及び巡業の開催、これを担う人材の育成、相撲道の指導・普及、相撲記録の保存及び活用、国際親善を行うと共に、これらに必要な施設を維持、管理運営し、もって相撲文化の振興と国民の心身の向上に寄与することを目的とする。

しかしながら、これはあくまでも相撲協会が「神事を起源とする相撲を継承発展すること」を目的としている団体であることを示しているに過ぎず、神事を活動の目的としていることを示すものではありません。その証拠に日本相撲協会は公益財団法人であり、宗教法人ではありません。大相撲では、例えば、注連縄に関係する横綱の腰周りや、陰陽道に従う土俵上部の装飾など、神道の型や舞台設定を取り入れてはいますが、これらはあくまでも伝統を表現したものであり、神事を行っているものではありません。

以上の事から、神事としての「相撲」と神事を紹介する興行としての「大相撲」とは分けて考える必要があります。大相撲の存在自体が神事であるという俗説は正しくありません。

あえて言わせていただければ、出雲の国という当時の「外国」から最強の勇者を呼び寄せた垂仁天皇も、モンゴル等の外国出身の最強の力士を採用している大相撲も、最強のブルーザー・ブロディやスタン・ハンセンを連れてきている全日本や新日本プロレスも、最強を決める戦いを実現させる点では共通しており、このうち、その最強を決める戦いを提供して観客を得る大相撲及びプロレスは明らかに興行であると言えます。

「相撲道」という不文律

日本書紀には、最初の相撲から25年後の野見宿禰について興味深いエピソードが紹介されています。垂仁天皇の時代には貴人が亡くなると、その貴人に仕えた人物を生きたまま墓の周りに埋めてしまうという制度があったとされますが、野見宿禰は、この制度の残酷さを悲しんでいた天皇に対して、生きた人間の代わりに土で造った人形を埋めるアイデアを出しました。天皇は喜んでこのアイデアを採用しました。これが埴輪のルーツです。以降、野見宿禰の子孫は土師という姓をもらって天皇の喪葬を司るスペシャリストの氏族となりました。

理不尽に亡くなっていく多くの命を救った野見宿禰は、高い倫理をもったヒーローとして脈々と語り継がれています。金太郎伝説にもあるように「気は優しくて力持ち」は日本人の美徳とされますが、その原型が野見宿禰であったと言えます。私はこのエピソードこそが、日本国民が横綱に品格を求める一つの大きな要因になっているものと考えられます。

さて、相撲協会の定款には、「力士は、相撲道に精進するものとする」という定義があります。しかしながら、「相撲道」というタームの定義はありません。

しばしば日本人は、自分が従事する分野に対して、「道」という言葉をつけて神聖化します。例として、茶道・華道・書道・柔道・剣道・弓道・野球道・プロレス道・任侠道などが挙げられますが、その多くは不文律の倫理をインプリシットに設定し、精神修行の名の下にその不文律に従うことをインプリシットに強制するものです。定義もされていないことに従うのは不合理ですが、「道」の世界ではそれが常識とされ、ときにそれがパワハラにや暴力に発展します。私は、今回の大相撲スキャンダルの大きな問題は、「相撲道に基づく倫理」というものが明示的に定義されていないこと、およびその「相撲道に基づく倫理」が「日本の法律」よりも優先されてしまうことにあると考えます。

例えば、日馬富士は「相撲道」に精進していない貴ノ岩を「相撲道」に精進させようと考えて暴力行為を働いたと考えられますが、この暴力行為は、当然のことながら「日本の法律」には反しています。日馬富士は「日本の法律」よりも日馬富士が考える「相撲道に基づく倫理」を優先させたと言えます。

また、貴乃花親方はこの暴力事件について「日本の法律」による裁定を優先しましたが、相撲協会はこれが「相撲道」に反する行為であると考え、貴乃花親方を処分しようと考えています。つまり、相撲協会は「日本の法律」よりも相撲協会が考える「相撲道に基づく倫理」を優先させていると言えます。

相撲協会の裁定の一つ一つが、相撲協会理事や横綱審議委員が考える相撲道の価値観によってのみ決定される相撲協会の運営方法にも大きな問題があると考えます。

例えば、白鵬が優勝インタヴューで語った「日馬富士関と貴ノ岩関を再び土俵に上げてあげたい」という発言や観客に万歳三唱を呼びかけた行為が「横綱の品格」にかかわるということで注意を受けましたが、私にはその注意の根拠がまったくわかりません。

倫理は論理とは異なり、個人の価値観に基づくものであるので、丁寧な説明が必要不可欠です。そもそも、善・悪の道徳的判断を可能な限り客観的に行うには【義務論 deontology】【帰結主義 consequentialism】等の倫理規範を明確化することが必要不可欠です。この大前提を怠って、「相撲道」という名の下に、個人の感じるままに他者の善・悪を勝手に判断していたとしたら大きな問題です。

日馬富士を含めて今回の事案の当事者は、それぞれの個人の価値観に基づき、信じるところを精一杯努力している可能性が高いと思われます。しかしながら、個人の価値観には差異があるのが普通であり、このことが今回の問題を深く混迷させているのは明白です。

あえて哲学的な観点から言わせていただければ、横綱審議委員会なる個人の人格を評価する委員会の存在はそもそも極めて奇異であり(笑)、この委員会の裁定を行動規範とする相撲協会は思考停止に陥っていると考えます。権威の感情で人格を評価する横綱審議委員会は【権威論証 ad verecundiam】【感情論証 ad passiones】【人格論証 ad hominem】という典型的な【論理的誤謬 logical fallacy】によって構成される極めて非論理的なシステムであると言えます。ちなみに1950年に生まれた横綱審議委員会は相撲の伝統とは一線を画す単なる諮問機関に過ぎません。

勝手な倫理を商売の道具とするマスメディア

相撲協会の混迷に乗じて、メディアスクラムを現場に送り込み、その混迷を必要以上に深刻化させているのが、ワイドショーやスポーツ紙を中心とする大衆マスメディアです。ワイドショーやスポーツ紙は、毎日のように何かしらの人物の倫理を問題視して説教しています。それは例えば、不倫をする芸能人であったり、失言をする政治家であったり、ゴミ屋敷で迷惑をかける一般人であったりするのですが、これには理由があります。ワイドショーやスポーツ紙は、大衆の不満のはけ口となる【スケイプゴート scapegoat】を造っては、その人物に対して徹底的な説教を行い、視聴率を上げていると言えます。この単純なビジネスモデルによって、一方的に悪人にされたスケイプゴートは不可逆的なイメージ低下を伴う必要以上の社会的制裁を受けることになります。

深刻なまでに一糸乱れぬワイドショーやスポーツ紙の道徳的判断によって構成される圧倒的な同調圧力は大衆を倫理操作して社会を不公正化します。たとえスケープゴートが論理的な行動をとっても【毒の混入 posoning the well】により人格を含めたすべてが否定されることになります。その結果として、「報道陣ねぎらうのは人として最低限の礼儀」なる倫理までが堂々と叫ばれることになります[記事]。

ちなみに一般化された倫理規範を基に道徳的判断をすれば、「報道陣」は、感謝の必要もない相手に【感謝の義務 duties of gratitude】を課すとともに相手のプライベートを晒すことで【他人を傷つけない義務 duties of non-maleficence】を怠っていることから【義務論】違反を犯していて、事態を引っ掻き回して【最大多数の最大幸福 the greatest happiness of the greatest number】の逆を推進していることから【帰結主義】違反も犯しています。勝手な倫理を振りかざして大衆を操作している一部ワイドショーや一部スポーツ紙の本質について、そろそろ全国民が気付く必要があると強く感じる次第です。


編集部より:この記事は「マスメディア報道のメソドロジー」2017年12月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はマスメディア報道のメソドロジーをご覧ください。

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