今年はヒトラー・ナチス政権のオーストリア併合(Anschluss)80年を迎える。バン・デア・ベレン大統領は1日の新年の演説で「今年はヒトラー・ナチス政権のわが国併合80年目を迎える年だ。わが国はヒトラーの犠牲国であると共に、加害国だったという事実を単に記憶するだけではなく、心の中でしっかりと留めておかなければならない」と述べ、「人種主義、反ユダヤ主義、そして破壊的な民族主義を再び甦らせてはならない」と強調している。
アドルフ・ヒトラーが率いるナチス政権は1938年3月13日、母国オーストリアに戻り、首都ウィ―ンの英雄広場で凱旋演説をした。同広場には約20万人の市民が集まり、ヒトラーの凱旋を大歓迎した。その後の展開は歴史がはっきりと物語っている。
オーストリアはドイツに併合され、ウィーン市は第3帝国の第2首都となり、ナチス・ドイツの戦争犯罪に深く関与し、欧州を次々と支配していった。同時に、欧州に住むユダヤ人600万人を強制収容所に送り、そこで殺害していった。蛮行は旧ソ連赤軍によって占領されるまで続いた。その後、カール・レンナーを首班とした臨時政権が発足し、第2共和国の建国が宣言された。
オーストリアは戦後、「モスクワ宣言」を拠り所として久しくヒトラーの戦争犯罪の被害者と主張してきたが、クルト・ワルトハイム元国連事務総長の大統領選ごろから「世界ユダヤ人協会」から激しい批判が飛び出していった(「『ワルトハイム』報道は重要な教材だ」2016年12月12日参考)。
ちなみに、1943年の「モスクワ宣言」には、「ナチス・ドイツ軍の蛮行は戦争犯罪であり、その責任はドイツ軍の指導者にある」と明記されている。
同国がヒトラーの戦争犯罪の共犯者だったことを正式に認めたのはフラニツキ―政権が誕生してからだ。同国は戦後、長い間、ナチス政権の犠牲国の立場をキープし、戦争責任を回避してきたが、フフランツ・フラニツキー首相(任期1986年6月~96年3月)はイスラエルを訪問し、「オーストリアにもナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の責任がある」と初めて認めたことから、同国で歴史の見直しが始まった。そこまで到達するのに半世紀余りの月日を必要としてした(「ナチス政権との決別と『戦争責任』」2015年4月29日参考)。
ただし、オーストリアではヒトラーに関連した事件が発生すると、国民は今なお平静に対応できないことも事実だ。オーバーエスタライヒ州西北部イン川沿いのブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)にあるアドルフ・ヒトラーの生家を家主から強制収用できる法案が審査された時、国民の間でその是非についてさまざまな議論が出てきた。
オーストリアで昨年12月、中道右派「国民党」とドイツ民族主義を標榜してきた極右政党「自由党」の連立政権が発足したばかりだ。新政権の樹立前から欧州各地でネオナチや反ユダヤ主義傾向の自由党の政権参加に強い批判と懸念の声が飛び出したことはまだ記憶に新しい。
蛇足だが、ヒトラーは1907年、08年、ウィーン美術アカデミーの入学を目指していたが、2度とも果たせなかった。もしヒトラーが美術学生となり、画家になっていれば、世界の歴史は違ったものとなっていたかもしれない。ウィーン美術学校入学に失敗したヒトラーはその後、ミュンヘンに移住し、そこで軍に入隊し、第1次世界大戦の敗北後は政治の表舞台に登場していくわけだ。歴史と人間の運命を考えざるを得ない話だ(「画家ヒトラーの道を拒んだ『歴史』」2014年11月26日参考)。
久しく戦争責任を回避してきたオーストリアが特別、狡猾な国、民族だったからではない。どの国、民族にも同じように認めたくない歴史的汚点がある。オーストリア国民を批判するのではなく、同国が最終的に歴史的過ちを認めたという事実に注目すべきだろう。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年1月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。