​​ジブリというキャリア教育(前編)

高部 大問

Myriam Hrybynyk/flickr:編集部

キャリア教育の手懸りは“揺さぶり”

『君たちはどう生きるか』を題材にした長編アニメ映画の公開、愛知県でのテーマパーク開業が予定される株式会社スタジオジブリ(以下、ジブリ)。娯楽を人々に提供してきたジブリだが、知れば知るほど示唆に富み別の見方が可能であることに気づかされる。特に、大学で日々学生達の就職支援やキャリア支援に携わる身としては、「キャリア教育」への学びの豊富さに驚かされる。

まず、「キャリア教育」を確認しておきたい。文部科学省によれば、キャリアとは「人が、生涯の中で様々な役割を果たす過程で、自らの役割の価値や自分と役割との関係を見いだしていく連なりや積み重ね」を指し、社会の中で自分の役割を果たしながら、自分らしい生き方を実現していく過程(キャリア発達)を促すことを「キャリア教育」と呼ぶ。では「自分らしさ」とは何かと言えば、「人は、自分の役割を果たして活動すること、つまり『働くこと』を通して、人や社会にかかわることになり、そのかかわり方の違いが『自分らしい生き方』となっていく」とされる(中央教育審議会「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について(答申)」平成23年1月31日)。

言い換えれば、「キャリア教育」とは、教育を施す側が受ける側に対して、幾種類もの社会へのかかわり方を示し、自分らしい生き方に気づいてもらうという、なかなかにハイレベルで骨の折れる営みなのである。ということは、大前提として、教育を施す側自身が今を磨いていないと話にならない。そして、社会への様々なかかわり方に柔軟な態度で理解を示し常にアップデートせねばならない。たとえば、有名企業への就職も“あり”だが、ユーチューバーや芸人という道も“あり”という立場を取ることを意味する。なぜなら、社会へのかかわり方は一様ではなく多様だからだ。たとえ自身が生きてきた時代や組織が終身雇用や年功序列で、個人的感情として受け入れ難いキャリアがそこにあったとしても、ひとつの価値観を押し付けることなく、視野を広く構えねばならない。あなたの人生ではないのだから。

キャリア教育のもうひとつの側面は、何も畏まったプログラムやカリキュラムのみを示さないということだ。自分らしい生き方を考えるきっかけを与えてくれるという意味では、家族や友人のちょっとした一言も、非常に大きなキャリア教育効果を発揮する。つまり、キャリアは非日常だけの持ち物ではないのだ。準備した言葉が届かなかったり、意図しなかった言葉が進路に影響したりする。大学の現場で学生と日々接していて感じるのは、自分らしい生き方を見出すヒントは“揺さぶり”にあるということだ。

ジブリ作品は“揺さぶり”のアニメである。たとえば、『耳をすませば』のなかで、主人公の月島雫は高校進学と物書きの間で岐路に立ち、揺れ動く。紆余曲折あって結果的に進学の道を選択するが、その選択の強さは、そこに至るまでの過程に揺さぶり(迷い)があったため余計に強度を増しているように思う。進学に妄信する周囲や、夢に向かって邁進する友人、そして物書きの道に否定的な家族と肯定的な応援者など、右に左にと激しく揺れ動く。

しかし、だからこそ、「揺れる心が苦しくてうれしい」という自己理解を経て出た「今日からとりあえず受験生に戻ります。ご安心ください」という彼女の吹っ切れた言葉は字面通りの“とりあえず”ではない。一方の選択肢を逃げ道として残しておきたいというどっちつかずの意思決定ではなく、“(物書きを)まずやってみた”ことで自分の至らなさを痛感しその道を断ち、“(受験生を)まずやってみる”ことを決意した明確な決断である。現実の世界でも十分に考えられるケースだが、キャリアを考える際に重要な節目(進路選択)において、揺さぶりなき意思決定は一見すると大いなる決断に見えるが、それはときに、思い付きと思い込みによる強引な自己正当化を孕んでいる。キャリア教育を施す側に求められるひとつのアクションは、敢えて揺さぶることである。

ジブリの作品とキャリア教育

このように、ちょっとした一言にも、キャリア教育のヒントを見出すことができる。まずは、ジブリの作品から言葉を紡いでみたい。便宜上、キャリア教育を施す側を“オトナ”、受ける側を“コドモ”とさせていただく。なお、作中の台詞ではなく主題歌や劇中歌の歌詞の場合は「♪」を冒頭に付記する形式とさせていただいた。ジブリ作品をご存知ない方にも意味が通るよう努めたが、そのように書いた理由は本稿の最後に譲ることとする。なぜキャリア教育にジブリなのか、どうしても引っ掛かるという方は先にそちらをご覧いただいても結構である。

先に見た通り、「キャリア」の守備範囲は、大きく構えれば人生全体である。無感情に人生を俯瞰して眺めれば、「人はいずれ死ぬ。遅いか早いかだけ」であり「生きることはまことに苦しくつらい」のであるが (『もののけ姫』) 、「♪さよならだけが人生なんてほんとのことかな?こんにちはだってある」のが実際だろう(『ホーホケキョ となりの山田くん』)。「♪死ぬのを恐れて生きることが出来ない」のはあまりに悲しい(『おもひでぽろぼろ』)。「派手な花に負けん立派な蝶々に」なりたいものである(『ホーホケキョ となりの山田くん』)。もちろん、「青虫はサナギにならなければ蝶々にはなれない」のだが(『おもひでぽろぼろ』)、「♪息が切れるまで走」れば「♪嵐のように毎日が燃え」ることだってある(『紅の豚』)。人生という物語のラストシーンが死という結末だと分かっていたとしても、そこに至るまでの経緯や過程がどうでもいいわけではない。キャリア(carrier)とはcarry(運ぶ)が語源とも言われるように、どんな場所に辿り着いたか(結果)も大事だが、どんな道で辿り着いたか(過程)も大事である。起伏ある人生を演じている真只中の人間にとってみれば、「人生がもうちょっと複雑」なのである(『紅の豚』)。

コドモに望むのはスキルよりもスタンス

ちょっぴり複雑な人生を生き抜くうえで、コドモに身につけてほしいことは何だろう。様々な表現が可能だが、“自ら考え行動する”ことに反対の方はおられないだろう。「自分で行って運を試」し(『千と千尋の神隠し』)、「わたしは自分でここへ来た。自分の足でここをでて行く」という構えである(『もののけ姫』)。もちろん容易いことではない。「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血など、神さまか誰かがくれた力」は人それぞれ違い隣の芝生が青く見えることもあるだろう(『魔女の宅急便』)。しかし、「ないものねだりしないでちょうだい」である(『おもひでぽろぽろ』)。

コドモはオトナから「迷い箸をするな。これと決めたら迷わず箸をのばして食え」とばかりに明確なキャリアデザイン(将来設計)を求められる一方(『ホーホケキョ となりの山田くん』)、やりたいことを言ったら言ったで「家族みんなが大反対」したり「毎日親とケンカ」になるかも知れない(『耳をすませば』)。だが、コドモには「じっと心に灯す情熱の炎」を絶やさないでほしい(『かぐや姫の物語』)。「荒々しくて率直で未完成」でいいのだ(『耳をすませば』)。

未完成が故に、キャリアの道中では、事あるごとに「あなた何か特技あって?」と問われ戸惑うだろう(『魔女の宅急便』)。だが、特技(スキル)の前に「私でよければ」や「他に何かありませんか」というMIHY(May I Help You=何かお手伝いしましょうか)の精神(スタンス)が不可欠である。スキルの前にスタンスだ。キャリアとは社会へのさまざまなかかわり方であるから複雑に考えがちだが、何のことはない。「お荷物だけなんてヤダ!私だって役に立ちたいんだから!」という誰もが持つ根源的な貢献欲を握りしめて(『耳をすませば』)、難しく考えすぎたときは、「人に感謝されるんはうれしいことでっせ」という原点に立ち戻ってほしい(『ホーホケキョ となりの山田くん』)。

揺らぎ途中のコドモは「長いものにまかれっぱなし」で「自分を失って」しまいがちだが、「本当の豊かさっていうのは何かって考えて」みて、「こだわってみる」ことは有意義である(『おもひでぽろぼろ』)。何にこだわるかと言えば、自分のキャリアであり、自分の人生にこだわるのである。(続)

(後編は19日に掲載します)

高部 大問(たかべ だいもん) 多摩大学 事務職員
大学職員として、学生との共同企画を通じたキャリア支援を展開。本業の傍ら、学校講演、患者の会、新聞寄稿、起業家支援などの活動を行う。