一番短いドイツ史

9781910400739

ロンドンの代表的な目抜き通り「ピカデリー(Piccadilly)」は、日本でいえば銀座の中央通り。イギリス出張のお土産の定番、紅茶やお菓子で有名な高級デパート、フォートナム&メイソン(Fortnum & Mason)の本店もここにあります。

そのフォートナムのお隣に古めかしい店構えで商売しているのが老舗の本屋ハッチャーズ(Hatchards)。1797年に開店の建物は店内を歩くとギシギシと床がきしんで、なかなか趣きがあり、私もロンドンに行くたびに時間があれば立ち寄って、どんな本が売れ筋なのか見物しています。

そのハッチャーズをこの4月に訪れたところ、私が買い求めた書籍を一見した親切なレジのお兄さんが「ついでにこちらもいかが?」と勧めてくれて買ってしまったのがこの本。「一番短いドイツ史(The Shortest History of Germany)」。お題に違わず、200ページちょっとの紙数でローマ時代から現代にいたるドイツ史を、簡潔かつ的確に書き下ろした好著でした。著者はイギリス人小説家、ジェームズ・ハウズ氏(James Hawes)。

日本にいると、「デカンショ」旧制高校時代からの西洋哲学教育の伝統と、クラシック音楽の人気、渡部昇一さんの「ドイツ参謀本部」、そして「銀河英雄伝説」の背景設定にいたるまでの環境から、なんとなく知っている気分になってしまうドイツですが、この本のおかげでいろいろ気づきがあり、今後のヨーロッパをうらなう上で欠かせないドイツ国内の潮流を考えるにあたって大切な知識を仕入れることができました。あくまでもイギリス人の視点からですが。

そのいくつかを以下に。

1.ドイツは大昔から東西に分裂している。

シャルマーニュのフランク王国のうち東フランク王国がドイツの原型。エルベ川以東はドイツ人が異民族(そして当初は異教徒)を征服した「植民地」。ローマ帝国以来の伝統の上になった「ヨーロッパ」的な西部ドイツと、植民地征服者としての貴族(ユンカー)が支配した東部ドイツは根本的に異質なものを内包している。後者の典型・発展型が軍事国家となったプロイセン。このプロイセンがドイツ帝国成立の核になったことが、近代ドイツの悲劇の一因。

2.ナポレオン戦争によりプロイセンは一回滅亡している

アウステルリッツの戦いで意気上がったフランス軍に無計画な戦争を仕掛けたフリードリッヒ・ヴィルヘルム3世のおかげで、イェーナ・アウエルシュタットの戦いで大敗したプロイセンは、絶望的な外交努力のおかげで一命をとりとめた。ナポレオンとロシア皇帝の間で交わされたティルジット条約がそれだが、これ以降、ロシア皇帝はプロイセンをロシアの属国としてみなすようになる。これはスラブ人を征服することでなっていた東部ドイツ人支配層には屈辱だった。

3.ナポレオン戦争の後、プロイセンを生き帰らせたのはイギリス外交の大失敗

ナポレオン戦争後のヨーロッパの線引きをしたウィーン会議で、ロシアの西進を恐れたヨーロッパ諸勢力の意向をくみ、またワーテルローの戦いでの貢献に対する見返りとして、ドイツで一番工業化がすすんでいた西部ドイツの心臓部、ヴェストファーレンとラインラントをプロイセンに与えることになる。これにより、西部ドイツの経済力が東部ドイツの軍事政権を支えるという構図が確立する。しかしこれは19世紀の帝国主義世界において経済覇権を競う先進的ヨーロッパ人としての西部ドイツ人と、いまだに前時代的な農奴社会のレガシーをひきずる東ヨーロッパでロシアを仮想敵国とするプロイセン軍事貴族政権との間で政治的矛盾をはらんでいた。

4.  ナポレオン戦争後のドイツは圧政時代

ウィーン会議の後、ドイツの諸侯はそれぞれの領地でフランス革命以前の封建主義的社会を再生・維持しようと努めるが、ドイツ人たちはそうした封建領主による旧体制を排除し、ドイツ民族の自立と統一国家の樹立をめざそうとする。この時代は「ナショナリズム」が反体制的であった時代。結果として各地で思想統制が行われるプチ暗黒時代に。文化面ではゲーテやシラーで始まったドイツ文学の萌芽は摘み取られ、かわって政治的主張がやかましくない音楽がもてはやされる。(これに反逆したのがワーグナー。)閉塞的な社会で比較的解放されていたのが大学で、ドイツの大学は自治と全ドイツ的若者の交流の場となり、アカデミズムが興隆。しかし学者の論文は言論統制の影に怯えて不必要に難解になる。ヘーゲルが、ありていに言えば「革命」の理論を「弁証法」などというややこしい歴史主義でラッピングしなきゃならなかったのはこれが原因。

5. 東西の政治的矛盾を内包した統一ドイツは2度の大戦で破滅的両面作戦をくりかえす

6.ドイツ統一を望まなかったドイツ人

戦前・戦中を通じて反ナチだったアデナウアー(戦前ケルン市長、戦後西ドイツ首相)はベルリン危機に際して、ケネディ大統領にベルリンを放棄するように進言していた。骨髄まで「西ドイツ人」だったアデナウアーにしてみれば、これ以上プロシア人の問題でドイツ政治をかき回させられるのが我慢ならなかったらしい。

7. ドイツで政権を確立した者は宿命的にヨーロッパの盟主たることを目指す

オットー大帝(912〜973)やフリードリッヒ1世バルバロッサ(1122〜1190)などの神聖ローマ帝国の時代から、ドイツの権力者は国内の諸勢力の統一よりも、全ヨーロッパ的影響力を行使したがる。「ドイツはヨーロッパにおいては大きすぎ、世界においては小さすぎる。」とはヘンリー・キッシンジャーの言葉とされるが、1990年のドイツ再統一で危機を感じたヨーロッパ諸国は、再び大国となったドイツをヨーロッパ共同体の一員として紐づけることでこれを制御しようとする。ドイツ再統一の代償は戦後西ドイツの復興のシンボルであったドイツマルクを放棄し、新通貨ユーロを他のヨーロッパ同胞とともに間接的にコントロールすることに甘んじること。

しかしこの近隣諸国との友好のための妥協と遠慮がちなふるまいも、金融危機でメルケル首相がヨーロッパ財政再建の舞台中央に押し出され、望んでもいなかったヨーロッパの盟主としての責任と権力をおいかぶさせられるとともに、あからさまな批判対象となることによってメッキが剥がれてきている。(←今ココ。)

8. 東ドイツはいまだに異質

2017年のドイツ総選挙で大躍進した右翼AfDの票田は旧東ドイツ。また極左のLinkeも旧東ドイツを基盤にしている。これは戦前のナチの支持基盤と同一の現象。旧東ドイツの各地方は将来的に大幅な人口減少が見込まれていて、移民労働者の流入とともに、不気味なドイツ国粋主義的な傾向は今後も簡単には修正されないだろう。(←今ココ。)

ドイツ人が書いた「イギリス小史」みたいな作品があったら読んでみたいですね。