ジャーナリズムは生き残れるか:「事実」より優先される「感情」

山田 肇

毎日新聞東京本社(Wikipedia:編集部)

ある方から「新聞やテレビといったジャーナリズムは生き残れるだろうか?」という質問を受けた。話を聞くと、ネットメディアはジャーナリズムではないと考え、一方でフェイクニュースはネットメディアの問題とその方は捉えている。そんな考え方自体が古臭いと思ったが、次のように回答した。

ジャーナリズムという用語を定義するのはむずかしいが、世の中の出来事を市民にできる限り正確に伝えることで市民の判断を助ける、民主社会発展のための道具と僕は考えている。こう考えれば、ネットメディアもジャーナリズムの一類型と認識できるし、新聞やテレビの誤報もフェイクニュースとして扱えられる。

もっとも大切なのは、できるだけ証拠を集めて事実に近づこうというジャーナリズムの姿勢である。多くの新聞・テレビは、残念ながら証拠を集めるよりも感情に基づいて記事を提供している。だから、新聞・テレビは市民の信頼を失い、購読者・視聴者が減少しているのだ。

たとえばということで、デジタル毎日で6月下旬に連載された『検証・森友文書』について、その方に説明した。この6回連載は財務省が公開した文書を読み込んだ毎日新聞杉本修作記者が執筆したものである。

初回は、2016年3月に小学校建設地で地下から大量の生活ゴミがみつかったことが籠池夫妻に付け入れられた原因だと説明する。第2回には「交渉記録には、“タフネゴシエーター(手ごわい交渉相手)”と呼ばれる籠池夫妻の交渉術が克明に刻まれていた。」とある。その上で第3回・第4回「政治家はなぜ利用されたのか」に続く。杉本記者の結論は次のとおりである。

国会議員秘書の照会を受けて、近畿財務局が賃料や売却の価格面で譲歩したと思える記述も見られない。こうした直接の「介入」は確認できなかった一方、政治家の名が財務省職員の心理にどのように響いたかを測ることは難しい。「忖度(そんたく)」を巡る国会での質疑が1年以上も続いているゆえんだ。

間違いないのは、政治家らが安易に受けた陳情が、籠池理事長に利用されたということだ。陳情は「当たり前」と考えているからかもしれないが、その責任は重い。昭恵氏を含め、利用された側からの謝罪の言葉は今も聞かれない。

財務省の文書を読み込んだ結果、政治家からの介入は確認できなかったし価格譲歩の原因にもなっていない、とわかったというわけだ。第5回には、野党議員の追及に対して財務省が「政治家からの働きかけはなかった」と否定し、それがきっかけで文書改ざんに進んだと書かれている。

杉本記者は証拠を集めて事実に近づこうとしているのに、どうして毎日新聞は官邸の関与を主張し続けているのだろう。この連載は毎日新聞本紙に掲載されなかったのだろう。「安倍総理大臣が大嫌いだから」というのでは感情論に過ぎない。

8月2日付の石破茂衆議院議員へのインタビュー記事にも感情論が見える。一問一答を読むと、「国会を公正に運営し、政府を謙虚に機能させる」という党綱領に忠実でなければいけない、と石破氏は発言している。他の記事では、その発言はモリカケ問題を念頭に安倍首相の政治責任を暗に指摘した発言だということになっている。

しかし、「暗に指摘した」は聞き手の感情論だ。面と向かって質問して、回答を掲載してほしい。それがなければジャーナリズムの復権はない。