困った変人知事と知事選挙をめぐる珍事の数々

八幡 和郎

戦後70年のあいだに、名知事もおれば酷い知事もいた。また、選挙でとんでもないハプニングが起きたこともある。今回は「47都道府県政界地図」(啓文社)から、ちょっと珍しいお話しを10選んで紹介したい。

もちろん、東京都など変人続きだし、橋下徹大阪府知事以上にユニークな知事もいないし、最近では新潟県の米山前知事のような人もいるが、ここではもう少し以前の人を取り上げておこう。

47都道府県政治地図
八幡和郎
啓文社書房
2018-10-18

 

①中西陽一(石川)

すべての公選知事のなかで、もっとも長く君臨したのは、石川県の中西陽一(1963~94)で、8回にわたって選出され、31年もの長い年月在任し、現職のまま大往生した。最後には、急速に衰えが進んで職員に両側から支えられながら公の場に現れたといったこともあったりしたが、それでも仕事を続け、現職のまま、老衰で死去した。

②白石春樹(愛媛)

愛媛県知事の権力は全国一と言われているが、これは、本物の殿様知事だった久松定武と剛腕で知られた白石春樹という二人の知事からの伝統だ。

久松の4選目の選挙では、保守会派が派閥争いを起こして分裂した結果、保革連合で県政刷新県民の会が結成され、愛媛新聞社長の平田陽一郎が立候補し、まれにみる接戦となった。これに対して、自民党は選挙違反覚悟で徹底抗戦し激戦を制したが、選挙違反が続出し総括責任者だった白石春樹も逮捕された。現在のように百日で判決という時代ではないので、高裁の判決が出て最高裁に上告中に5選目の選挙になり、社会党のエース湯山勇代議士が革新知事らの応援を得て立候補したのを押し返した。

そして、明治百年の恩赦があるというので、白石は上告を取り下げて刑を確定させたうえで恩赦を受けた。このために、久松の4期目は当選無効となったが、任期はすでに終わっていたので実質的意味はなかったのである。そして、1971年の知事選で、「罪を一人で被った」白石はより強固な基盤を手に入れて当選したのである。

この間、久松県政においても、白石が実力者として君臨していたので、久松の5期と白石の4期はほとんど連続している。愛媛では、県教組の力が強かったが、白石はこれを猛然と切り崩した。

とくに、久松時代の「勤評闘争」や全国学力テストをめぐる騒動は、全国的にも注目され、全県をゆるがす大事件となった。政治的にも抜群の力を誇った教祖への反発が強かったのに理由がないわけではなかったが、組合員に対する南予の山間地から瀬戸内の離島へ毎年移すといった過酷な転勤命令、学力テストで全国1位を獲得するために試験の範囲ばかりを教えるとか、成績が悪い生徒への欠席勧告、カンニングや問題漏洩などが続出し子供たちの心にも深い傷跡を残した。

③大竹作摩(福島)

土俗的な権力者の典型と言われたのが、福島県の大竹作摩(1950~57)である。磐梯山の裏にある北塩原村に生まれ、高畑塾を修了。村議から県議となり保守政界のドンとして君臨した。直木賞作家の小山いと子が書いた『民選知事』という小説の「彼は県会で一度も演説をぶったことがない。どんな席でも方言を使い、シとスを間違えて発言するので県民の間に人気を得ている」とした登場人物のモデルだそうだ。

只見川開発には格段の関心を持ち、当時の金で4000万円と言われる工作費を使うなど強引ともいえる政治力で実現させていった。また、福島県では県庁を交通至便の郡山に移せという案が戦前から課題になっていたが、福島に豪華な新庁舎を建設して論争に終止符を打った。田中角栄の先達ともいうべき存在だったが、引退時には財政赤字が18億6000万円にも達して財政再建団体になってしまった。

④吉村午良(長野)

吉村午良(長野県中小企業団体中央会サイトより)

長野五輪の誘致にあたって、吉村午良(1980~2000)はかなりの無理をした。東京大学法学部卒業後すぐに長野県庁に勤務。四年後には課長となったが、そののちに、宮城県、自治省に転じ、1965年になって長野県に総務部長として復帰。71年には副知事となった。

オリンピックを商業主義化したサマランチ会長のもとでの開催は、サマランチ路線の光と影を反映したものとなった。そもそも国内で競争相手だった岩手を振り切れたのもスポーツ界の実力者といわれた堤義明の決断がものをいったし、招致活動には委員たちへの「工作」が不可欠という現実があった。その行き着く先が招致委員会の帳簿が破棄されて、資金の使い道の詳細が分からなくなるいう不祥事だった。

⑤亀井光(福岡県)

猟官制度をとるアメリカと違って、日本では政権や首長が代わってもたいした変動が公務員の世界で起きるわけでないが、福岡県で革新の鵜崎多一知事から、保守の亀井光知事にかわったときの粛清はかなりのものだった。

鵜崎は炭鉱閉山などに対応して、雇用創出や福祉充実に力を入れたのだが、公務員としての採用を乱発するなど後年度負担が大きすぎる施策が多かった。2期8年に及ぶ革新県政のあと知事になった亀井光は組合と対立し容赦なく人員整理を行った。

しかし、亀井光は、豪華な新庁舎や知事公舎で墓穴を掘る。黒川紀章が設計したものだが、空から見ると形が亀と井戸に見え、しかも太陽光発電システムが「光」をシンボルとしたものだといわれた。また、知事夫人の趣味によったといわれた豪華な調度品などが猛烈な非難の対象になった。

⑥蜷川虎三(京都)

蜷川虎三(Wikipedia:編集部)

「新撰組」に登場する京都守護職・松平容保の公邸は、御所の少し西側にある釜座通下立売、つまり現在の京都府庁そのものである。戦後に一時代を築いた蜷川虎三知事(1950~78)の時代、人々は府庁を「釜座幕府」と呼んで、その比類なき権勢を言い表した。

なぜ蜷川虎三がこれほどまでに強かったかだが、第一は、豪放な人柄や大学教授らしい語り口、そして、巧みな反中央的な毒舌が京都人に好まれたことである。だが、それとともに、府内で知事批判をすればただちに知事に知られるといわれた徹底した情報網、各種団体への補助金によるきめ細かい補助、勲章の推薦権など府の持っている権限の巧みな使用で、本来は保守系の牙城であるはずの医師会や宗教団体、それに伝統工芸品産業界への個別撃破にも成功した。

その蜷川に対してついには、保守府政の奪還に成功した原動力は、ひとつは、塚本幸一(ワコール)らの経済人と、草の根から立ち上がった野中広務らだった。野中はのちに代議士になったが、野党経験のない自民党にあって、蜷川巨大権力と戦った実績を持つ野中は貴重な野党政治家として一気に自民党幹部にのし上がった。

⑦西尾愛治(鳥取県)

鳥取県の第1回の知事公選では、県庁の水産課長をつとめ、農民総同盟を中心とする革新勢力が支持の中心だった西尾愛治が当選し、課長から知事への「三段跳び知事」と話題になった。「三セン(大山、温泉、借銭)」から「FIE(林業、農産工業、発電・教育)」をスローガンに産業育成を主張したが財政難もあって実効はもうひとつ上がらなかった。

この西尾は、南米への大量移住を唱え、議会の反対を押し切ってなんと5ヶ月にも渡る外遊を強行したが、これをきっかけにリコール運動も起き2期目の任期途中で辞任した。

⑧伊達慎一郎(島根)

テレビ各局はライバルより早く当選確実を出した方が視聴率が上がると思っている。そこで、このごろは、出口調査で開票が始まる前に当確が打たれて当事者をしらけさせることも多い。また、総選挙などでは、毎回のように「幻の当確宣言と万歳三唱」がある。それが知事選挙で起きたのが、1971年の島根県であった。

日本一の大山林地主といわれた田部長右衛門の後任を決める知事選では、竹下登は満州国政府で働き、帰郷して県庁に勤め副知事となっていた伊達慎一郎を担ぎ自民党公認とした。だが、桜内義雄、細田吉蔵、大橋武夫の三代議士は、県出身の自治官僚で沖縄開発庁長官だった山野幸吉をかつぎ、さらに、社会党も参議院議員だった中村英吉を擁立して大接戦が繰り広げられた。

そして、結果は、山野陣営による「万歳三唱」のあと、174票差で伊達陣営が勝利を収めた。この結果は裁判で争われ、109差と認定されたが結果は変わらなかった。

⑨圓藤寿穂(福島)

圓藤寿穂(日本財団サイトより:編集部)

運輸官僚だった徳島県の圓藤寿穂は、後藤田派と三木派の阿波戦争に終止符を打つべく、両派の妥協で担ぎ出されて安定し2001年9月に3選されたが、収賄事件で逮捕され辞任に追い込まれた。2002年4月の出直し選挙では、保守系は、女性候補で地元の大塚製薬幹部の河内順子を推したが、急造候補の感は免れず、前年の知事選で健闘した大田正が大差で当選した。

市民参加の気運のなかで当選した大田だったが、少数与党で副知事選任などもできず、公約への過度のこだわりが手を縛った。徳島空港拡張工事では停止したものの、併設する産業廃棄物最終処分場建設に支障を来すということから関係市町村の反対を受け撤回せざるをえなかった。「汚職調査団」構想も、人選が偏っていると批判された。そういうなかで、保守系県議は、時期尚早ともみえる知事不信任を強行し、2003年5月に知事選挙がまたまた行われることになり、総務省より部長として出向中の飯泉嘉門が当選した。1年半に3回の知事選挙が行われたわけだ。

⑩川村和嘉治(高知)

一度辞めた知事が返り咲いたというのは、2例あってひとつは群馬県の北野重雄知事だが、もう一人が高知県の川村和嘉治である。

川村は京都大学農学部を卒業して大阪毎日新聞に入り、農政記者として活躍した。戦時中には農業報国連盟常任理事として農民運動に関わった。だが、この経歴のために、1947年8月には公職追放になった。知事に立候補したものの追放された人はいるが、当選してから公職追放になったのは、ほかに例がない。

それに替わって知事になったのは、岐阜県で最後の官選知事をつとめ、公選知事選挙に立候補したものの武藤嘉門に敗れて苦杯をなめた桃井直美だった。しかし、4年後には、地元出身の吉田首相が率いる自由党は桃井前知事を支持したが、民主、社会などは追放を解除された川村前知事を推して勝利したのである。