平成総括:コンプラ至上主義が日本企業の活力を奪った

秋月 涼佑

昭和の終わりとともに日本経済は、ジャパンアズナンバーワンとまで言われた絶頂から、失われた30年、長期停滞の平成時代を過ごした。景気循環だけを見れば、アベノミクスは戦後最長の好況をもたらしている体だが、所詮はドーピングめいた後ろめたさが付きまとう。

写真AC:編集部

平成時代は、IT革命の時代とも重なっており世界の産業構造が劇的に変化した時代でもあった。GAFAを筆頭にした新興プラットフォーマーの台頭や、中国をはじめとするかつて中進国以下だった国の急成長など、日本にとってはまるで他の星の出来事のようにさえ感じられる。なぜ、かつて輝きを放っていた日本の企業群は、停滞してしまったのだろう。

実際に、平成時代の多くの時間を企業活動の現場に身を置き過ごしてきた私自身としては、振り返るにキツネにつままれたような不可思議な気分さえある。もちろん、この時代とて日本の企業人たちは総じて勤勉で日々一生懸命に働いてきたことに間違いはないのだ。いやむしろ過労死が決して他人事と思えないほどに皆必死に働いてきた。

確か昭和の時代からバトンを受け、平成が始まり走り出したとき日本企業は世界のトップを走っていたはずではないか。それが、いざ平成から令和の時代にバトンを渡す段になってみると、多くの国に抜かれており、先頭集団に踏みとどまることにさえ汲々としているような状態だ。

「コンプライアンス」「ガバナンス」「IR」の“正しさ”が、暗黒の時代を創出する皮肉

もちろん原因は複合的なものに違いない。バブルで傷んだバランスシートやトラウマが企業や銀行活動の足かせとなった部分もあるだろう。為替や人口動態での分析も可能かもしれない。しかしこの時代を企業活動の現場で過ごした私の肌感覚としては、行き過ぎた管理主義の暗雲が日本の“会社”を徐々に覆い、結果企業本来の活力を奪うに至ったのではないかと感じる。

写真AC:編集部

平成の管理主義は、正義の装束をまとっている。その圧倒的な“正しさ”が世の中を席捲する風景は、ゆるぎなき神の正義が、皮肉にも暗黒のヨーロッパ中世を形成したことに似ている。「コンプライアンス」「ガバナンス」「IR」。

すべて、企業活動の透明性や適法性を担保する正しい目的を唱道して導入された。きっかけは企業活動のグローバル化だろうか。旧来の日本固有の商習慣では企業活動の実態が分かりにくいと、外国企業からグローバルスタンダードの美名のもとに対応を強いられた。結果、これら概念が平成の時代を通して日本企業にジワリジワリと浸透していった。

その始まりにおいては日本の経営者もあまり前向きではなかったかもしれない。直感的に、それ自体が企業の生産性やイノベーション自体を生み出す仕組みではないと、これら管理強化のコンセプトを本能的に忌避したかもしれない。しかし、“正しい”概念であるとの御触を前には後ろ向きの姿勢は経営者としての資質の問題にされかねず、前近代的な経営者の烙印を押されるかもしれぬとの恐怖心からも積極的な抵抗は難しかった。

しかもどんな時代どんな組織にも、開発や営業の才覚に欠けるがゆえ管理制度の細密化に命を懸ける内務官僚型の人々が存在する。彼らにしてみれば、管理強化は飯のタネである。どんなに手数がかかろうと、どんなに企業の生産性に貢献しなくとも、その体系を荘厳化することに何ら痛痒はない。

しかも、彼らの職能は企業内で潰しが効かないがゆえに、営々とその役割に張り付き立場も年功序列的に上がりつづけ上司から部下へと一子相伝の教義が伝承されやすい。つまり年々企業内で、コンプライアンス教の教義は強化され純度を増す傾向がある。開発や営業現場でタタキ上げてきたビジネス感覚に秀でた幹部社員も、これら内務官僚が待ち受け仕切る宮廷に昇格し入った時点で、その教義に抗うことは難しくなる。

行き過ぎた、“正しさ”の追求が職場を萎縮させる

一方で、これら“正しい”ドグマの毒がどう現場を殺すかというと、ひとつは煩雑な報告書や管理業務によってである。一件一件は大した工数がかからない業務も、積み重なればボディーブローのように効いてくる。そもそもまったくモチベーションがわかない業務である。まして、国家における徴税権よろしく、その“正しさ”ゆえに、その督促は本来の顧客以上に厳密であり、放置が許されない。仕事の現場でしばしば管理資料の提出を催促する中間管理職と部下の狂騒曲が繰り広げられるようになったのはいつ頃からだろうか。

ドグマの毒のより致命的な作用は、強力過ぎる牽制効果によるものだ。平成の時代は職場もIT化した時代である。つまり、ほとんどの業務活動にログ・記録が残る時代ということである。メールのやり取り、ちょっとした経費伝票、会社貸与の携帯電話。防犯カメラとて多くのオフィスには当たり前についている。

もちろんほとんどの社員は割にもあわない悪事に手を染めようなどとはこれっぽっちも考えていない。しかしこの時代、野心があればあるほど、「脇が甘くない」優秀な人間であるほど、万一の疑念も将来にわたり持たれたくないと慎重な行動に徹さざるを得ないのだ。結果どうなったか、企業の現場は本物の修道院のようになってしまった。

そもそも日本の職場は、“正しさ”を実現していたのではないか。そして、活力と闊達さだけが失われた

ジャパンアズナンバーワンの時代を牽引した先輩たちを見るにつけ、かつて日本の職場は大らかだった。勝手に何か月も海外に行っていたかと思うと、とんでもない仕事を持って帰るなど、器量とキャラクターで武勇伝が許されていた時代だ。フィクションの世界でさえ、スーダラ節に、森繫久彌の社長シリーズ、釣りバカ日誌の浜ちゃんなど今の職場ではとても許容されないだろう。下手をすれば社長のスーさんさえ弾劾されかねないのが現代日本の企業社会なのである。

それでは、昭和の日本企業に比べて平成の今のほうが、企業はより”正しい”存在に進化したのだろうか。私は、必ずしもそうとは言えないように感じる。なぜなら、かつても少数の例外を除き大多数の日本企業が、常に勤勉で真面目であったからだ。大らかさと多少の武勇伝を許す器量はあったにしても、高度なバランス感覚で深刻な不正は許さなかったはずだ。そして、少なくとも、先輩たちの職場には活力と闊達さがあった。

一方今はどうだろう。むしろ「コンプライアンス」というお題目を唱えていることで、肝心の“正しさ”の実現においても思考停止を招いてはいないか。象徴的には、「コンプライアンス」「ガバナンス」「IR」の先進企業とみなされていた日産ゴーン氏逮捕の件などは、いかにこれらお題目が表面的なものに練り得るかということを証明してしまっている。

「角を矯(た)めて牛を殺す」という本末転倒からの脱却。自家中毒からの脱却

つまり、企業活動の上位概念はあくまで、イノベーションであり生産性であり、闊達とした場であるべきだ。「角を矯(た)めて牛を殺す」という言葉がある。角が曲がっているのを嫌い矯正しようとした挙句、肝心の牛を殺してしまうという箴言であり、人間の陥りやすい本末転倒を戒めている。

平成が終わろうとしている今。なぜ、これほどに日本人ががむしゃらに働きながら、イノベーションから遠ざかってしまったのか。なぜ、職場からかつての闊達さが失われてしまったのか振り返っても良いのではないだろうか。何も安直に、外国勢力の陰謀とは言わない。むしろ、「コンプライアンス」の正し過ぎるコンセプトが真面目な日本人に、はまり過ぎている。

新しい令和の時代、冷静に自家中毒に対処し、企業という本来的に活力あるセクターの本領を日本に取り戻したい。そして、再び圧倒的に元気な日本の時代を迎えたいと考えるがいかがだろうか。

秋月 涼佑(あきづき りょうすけ)
大手広告代理店で外資系クライアント等を担当。現在、独立してブランドプロデューサーとして活動中。