日本で宗教テロの意識が低いのはなぜか?

スリランカで起きた連続テロは日本人を含む300名以上の命を奪いましたが、そのテロの理由がニュージーランドのモスクで起きた銃乱射事件への報復と報じられています。日本の宗教テロに対する一般的報道は事故の規模や被害に対する惨状は報じますが、背景の深堀は興味がないのか、解説はやや少ないような気がします。

ISの活動が活発だったころ、日本もテロの標的であるというようなことが言われました。幸いにして現在に至るまで目立った事件は起きていません。宗教テロは日本で起きにくい理由があるのでしょうか?

(写真AC:編集部)

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我々日本人はたいていの場合、神道と仏教を適宜組み合わせ、更にキリスト教をフレーバーに利用したりします。多くの人は新年に神社にお参りに行き、死ぬときは仏教に委ねます。その仏教も真言宗や浄土真宗などいろいろ宗派がありますが、それが話題になってもせいぜい「オタクは?」ぐらいでこの原因で喧嘩したという話は聞きません。

ここまでくると日本人にとって宗教とは着せ替えができるファッションとも言えそうです。結婚式のプランニングで「式はどのような形に?」「キリスト教式でお願いします!」っていうのは食事のコースを選ぶがごとく自由選択性であるこの国ほど不思議なことはありません。

なぜこうなったのか、といえば神道における「八百万の神」の考え方が浸透しているからでしょうか?つまり、すべてのものには神が宿るという考え方に基づき、神様が無数にいるのだからいろいろな神と対等に接することができるという発想であります。

よって日本でも宗教団体によってはとてつもない寄付やお布施を行うところがあります。大組織化し、政治団体と化し、巨大なる資産を築く団体もあればオウムのように極端な思想に走るケースもあります。オウムはアレフと改名し、現在でも活動が続いていますが、目立った社会問題を引き起こしていないこともあり、信者もそれなりにいるとされています。

それ以外にも様々な新興宗教や宗教的団体もありますが、他人がそれに対して苦情をいう事態にはあまりならないと思います。それは信仰の自由という以外に何を信じても相反発する理由がないからでしょう。どの様な宗教でも悪事を働かない限り信じるのは自由、そしてそれを侵害する必要もないというのが日本人の基本スタンスだと思います。

宗教的には日本は多神教と言われ、学問的にはユダヤ、キリスト、イスラム教などの一神教に比し原始的宗教と考えられています。その理由が経典(教え)の存在とそれを伝える役割を担う人、牧師や伝道師、ウラマーがないことがあるでしょう。例えば道端に座る地蔵様にいくら問いかけても何も教えてくれません。この地蔵がこんなことを言っているという聖職者もいません。

これは日本人のすべての人に神が宿るものの一定の解釈は特になく、よってもめごとの対象にならないのでしょう。

ところが一神教は教義に戒律があります。この教えを究極的に追及していけば相反する相手をはじく、という発想が出やすいのは自明の理でしょう。これがいわゆる原理主義と称する人たちで現在の宗教テロを引き起こす思想犯の背景であります。

ここまで考えると日本人は教えがないのに一定の道徳心と公共心をもって万人が平等に暮らせる仕組みを持ち続けられる世界でもまれにみる崇高な人種なのかもしれません。

日本で宗教テロが起きにくいとすればその理由はどんな宗教も否定しないからである、と言えないでしょうか。原理主義に染まったテロリストは無差別殺人というより宗教戦争を通じて相手ある戦いをしています。ただし、的の絞り方がおおざっぱで無関係の人も巻き込むケースが多発していると考えています。

もちろん、日本でも宗教的テロはあまりなくても極右、極左を含む思想的テロは存在します。よってテロと無縁ではないこと、また世界の隅々にまで進出したり観光したりする日本人が今回のように巻き添えになるリスクは今後も大きいということは肝に銘じた方がよいのでしょう。そういう意味では日本人は「宗教の縛り」にあまりにも無頓着なのかもしれません。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2019年4月24日の記事より転載させていただきました。