イタリアのかかとで、東京を想う


イタリアのかかとでこれを書いています。

トゥルッリの中はあたたかいけど、大雪で外は東京よりうんと厳しい。


左から
1.ブッラータと地ワイン。
2.チーズと辛いサラミのオレキエッテ。
(ヘビーな絶品。トスカーナのサンキリコでたべたアヒルのラグーのうどんPICI、モンテプルチャーノでたべた猪ラグーのうどんPICIを思い出させる。)
3.ブタの首。


アッピア街道の終点を示す古代ローマ円柱の眼前にはアドリア海が紺に広がる。
森鴎外「舞姫」はここから船に乗って始まる。

対岸はアルバニア、少し下ればイオニア海に出る。
地中海を抜けて紅海、アラビア海、インド洋、フィリピン海、東シナ海。
その先にようやく東京が見える。
東京のことを想う。

「69、エロティックな年」。
セルジュ・ゲンズブールがジェーン・バーキンとこの曲を歌って半世紀。
前年の1968年、パリは五月革命に燃えていた。
プラハの春、中国文化大革命、ベトナム戦争泥沼化。
世界も燃えていた。

69年、日本もプチ炎上した。
東大の安田講堂攻防戦だ。
入試が中止となった。
だが5年前の東京五輪から後も高度成長は続いていて、翌年の大阪万博に向け槌音が響いていた。
「サザエさん」のアニメが始まった。
平和だった。

当時の人気番組に「東京ぼん太ショー」がある。
全国から東京に集まる田舎者を代表する東京ぼん太は唐草模様の背広を着ていた。
その衣装はバカボンが着物として受け継ぐ。
東京は世界の辺境で、巨大な田舎だった。

五輪の頃の東京をルポした開高健「ずばり東京」。
駅、刑務所、トルコ風呂、祭り、飯場、戦後がまだ残り、急激に膨張し、日常が騒がしくヒリついていた雑踏で、大量の田舎者が息荒くあえぎながら、濁った眼で明日を見ていた。

東京はたくさんの歌をもつ。
1936年、東京ラプソディー。
1946年、東京の花売り娘。
1957年、東京だョおっ母さん。
1961年、東京ドドンパ娘。
1965年、東京流れ者。
東洋の片隅に咲いた楽園に、全国から娘もお母さんも不死鳥の哲も夢を描いて流れてくる。
流れ者の街。

流れ流れて東京は。
夜の新宿花園で。
藤圭子はキッと目をみて「命預けます」と言った。
そんなこと言われても、と思った。
(娘の宇多田ヒカルさんが婚礼をあげたポリニャーノ・ア・マーレの教会です。)

東京が東京に決別し、TOKIOに生まれ変わるには、80年代を待つ必要があった。
速水健朗「東京β」は1980年、沢田研二「TOKIO」が「西洋の視点、つまり異文化として見た東洋世界を自らが演じるといった屈折したオリエンタリズムとでもいうべき東京=TOKIOの再解釈」だとする。
スーパーシティが舞いあがる。

同じころYMOも「テクノポリス」でTOKIO、TOKIOと世界につぶやいた。
東京ではなくTOKIOと記すことで、西洋から見た日本という読み替えを行う必要があった。
西洋に追いついた日本を自己規定する行為がTOKIOだ。
速水さんはそう言う。

岡崎京子「東京ガールズブラボー」。
80年代前半、北海道から上京した主人公のセリフ「ふしぎふしぎ東京タワーって みてるだけで元気になっちゃう」。

それからバブルに至り、弾けて、落ち着く。
クールジャパンが海外からやってくるのは20年後のことである。
その後、東京は最も創造的と海外から見られるようになった。

(つづく)


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2019年5月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。