天野事務局長の10年間の「歩み」

長谷川 良

ウィーンに本部を置く国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長(72)が来年3月には健康を理由に早期辞任する意向、というニュースが流れている。同氏は現在、3期目の任期(4年間)中で、任期満了は2021年11月末。昨年夏ごろから健康を害し、昨年の第62回年次総会を欠席するなど、その職務履行が次第に難しくなってきていた。

▲早期辞任が囁かれている天野之弥事務局長(IAEA公式サイトから)

▲早期辞任が囁かれている天野之弥事務局長(IAEA公式サイトから)

IAEAを取り巻く状況は緊迫している。特に、13年間の核協議の外交成果というべきイランの核合意が7月に入り、テヘランが合意内容に違反する一方、北朝鮮の核問題では非核化交渉にタッチできず、蚊帳の外からフォローしなければならない状況が続いてきた。重要な議題を抱えている時だけに、日本人初のIAEA事務局長には無念の思いがあるだろう。

天野氏のIAEA事務局長誕生は難産だった。在ウィーン国際機関日本政府代表部の全権大使を務めた後、エルバラダイ事務局長の後任選に出馬。被爆国・日本として核専門機関の事務局長ポストを得ることは日本外務省の悲願だった。その願いを受けて出馬したが、当選に必要な有効票3分の2を獲得することは大変だった。土壇場で反対票を投じてきた国が棄権に回った結果、当選ラインに入った、というドラマチックな展開だった(「『反対から棄権に回った国』を探せ」2011年7月3日参考)。

事務局長選で当選した天野氏はその直後、駐IAEA担当米大使に「私は米国の意向に反することはしない。米国を完全に支持する」と発言したというニュースが流れ、“米追従の事務局長”という声が加盟国から飛び出した。

天野氏は2009年12月、事務局長に就任直後、国連職員食堂でスタッフと一緒に食事するなど、職員との交流を重視する一方、核のセーフガード問題にメディアの注目が集中し過ぎることに対し、「IAEAは核エネルギーの平和利用を目標として創設された専門機関だ。核技術の医療応用も重要な課題」と表明し、開発途上国にがん対策として核関連医療技術の支援などに力を注いできた。ちなみに、天野氏の事務局長就任最初の外国訪問先はナイジェリアで、がん対策への核医療支援問題が議題だった(「IAEAのもう一つの顔」2012年2月4日参考)。

日本に関心が高かった北朝鮮の核問題では、査察官が2009年、北朝鮮から追放されて以来、IAEAは北の核関連施設へのアクセスを失った。天野氏は理事会では、「IAEA独自の情報はない。IAEAはいつでも北の核関連査察ができる用意がある」と表明するに留まった。ただし、IAEA査察局内に2017年8月、北専属査察チームを設立し、北の非核化の進展具合如何では査察に乗り出すことができる体制を構築している(「北の核問題とIAEAの『失った10年』」2019年3月4日参考)。

天野氏にとって最大の衝撃はトランプ大統領が2018年5月8日、イラン核合意から離脱を表明したことだろう。核協議はイランと米英仏中露の国連安保理常任理事国にドイツが参加してウィーンで協議が続けられ、イランと6カ国は2015年7月、包括的共同行動計画(JCPOA)で合意が実現したが、トランプ大統領は「核合意ではイランの大量破壊兵器開発をストップできない」として、核合意から離脱を宣言したのだ。

イランは濃縮ウラン活動を25年間制限し、IAEAの監視下に置く。遠心分離機数は1万9000基から約6000基に減少させ、ウラン濃縮度は3・67%までとする(核兵器用には90%のウラン濃縮が必要)、濃縮済みウラン量を15年間で1万キロから300キロに減少などが明記されていたが、イランは、「欧州連合(EU)の欧州3国がイランの利益を守るならば核合意を維持するが、それが難しい場合、わが国は核開発計画を再開する」と主張。今月に入り、濃縮ウラン貯蔵量の上限を超え、ウラン濃縮度も4・5%を超えるなど、核合意を違反したばかりだ。

IAEAはイランとの間で締結した包括的行動計画を実施し、核合意内容の順守を検証する役割を果たしてきた。そして理事会では天野氏は「イランは核合意を順守している」と報告してきた。それに対し、トランプ米政権は、イランの合意順守をIAEA理事会で報告する天野氏に対し、IAEA高官のセクハラ問題をメディアにリークし、天野氏の指導力に疑問を呈するなど、圧力を行使してきた経緯がある(「トランプ氏が“天野氏叩き”を始めた」2018年5月26日参考)。

天野氏は事務局長就任直後、「米追従事務局長」と加盟国の一部からレッテルを張られてきたが、イランの核合意に対する毅然とした態度で取り組む天野氏に対し、加盟国の間で「天野氏の株」が高まった。皮肉にも、トランプ氏のイラン核合意離脱表明は天野氏の評価を高める契機となったわけだ。

ちなみに、昨年のIAEA年次総会でイランのアリー・アクバル・サーレヒー原子力庁長官は欠席した天野氏に言及し、「ハードワーカーの事務局長の快癒を願う」と述べていた。何度もテヘランまで足を運び、現地視察を行ってきた天野氏の言動を、イランは最も評価している国ともいえる。

忘れてならないことは、福島第1原発事故(2011年3月)を受け、IAEAは「原子力安全に関する行動計画」を作成し、加盟国に福島第1原発の教訓をまとめ、原発の安全性強化に乗り出すなど、福島原発大惨事に対し、原発の安全性の強化で大きな役割を果たしてきたが、その背後に母国・日本の原発事故に心を痛めた天野氏の外交努力があったことだ。

天野氏は現在、任期3期目に入っている。21年12月には3期目の任期満了で辞任することになっていたが、2年余りを残してそのポストから降りることになるかもしれない。天野氏を失えば、IAEAでの日本の影響力、情報量は減少するかもしれない。天野氏には辞任最後の日まで健康を留意しながら、その知力、経験を発揮してほしい。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年7月22日の記事に一部加筆。