まず憲法学者を議論に引きずり出すべきではないのか

2019年07月28日 11:30

写真AC:編集部

参議院選挙が終わり、改憲論議の行方が話題になっている。多くの人々が、「改憲問題は国民の関心事項ではない」といった主張をしている。改憲論の進展への強い警戒心は、改憲問題への強い関心の表れのようにも思えるが、議論はしないのだという。

わかりにくい。

議論しないという立場の人々は、「自衛隊は広く国民に認められているのだから、改憲の必要性はない」と主張している。しかし自衛隊が広く認められていることを肯定しているのなら、改憲に賛成してもいいではないか。

非常にわかりにくい。

アンケート調査では、具体的な改憲案の是非についての質問ではなく、「安倍政権下での改憲に賛成ですか」とか「改憲問題の優先順位はどれくらいですか」といった、ひねった質問がなされる。

とてもわかりにくい。

わかりにくい原因は、冷戦時代を生きていた世代の人々が、すべてを左右のイデオロギー集団間の闘争の歴史の中で捉えていることなのではないか。論理的一貫性は度外視して、勝つか負けるか、といった図式で全てを捉えている。そのため人間関係に着目するとわかりやすいのだが、論理を見てみると、とてもわかりにくくなってしまうのではないか。

改憲の必要性のポイントは、解釈の確定である。

憲法9条の解釈が曖昧になっていることは疑いのない事実だ。解釈を確定させることに大きな利益がある。改憲が解釈確定に役立つなら有益だし、そうでないなら無益だ。

安倍政権の改憲に反対の憲法学者(左は長谷部恭男・早大教授、右は小林節・慶大名誉教授=FCCJより:編集部)

現在でも憲法学の基本書を見ると、自衛隊違憲説が学界「通説」として紹介されている。それなのに憲法学者たちが率先して「自衛隊は広く国民に認められている」と声高に主張しているのは、いったいどういうことなのか。

「自衛隊が違憲だと言う憲法学者ばかりではない」などとのんびりと語ってみせる憲法学者もいるが、それでは、結局、どちらなのか。学者の良心から、議論せずにはいられない、という衝動を、憲法学者の方々は感じたりしないのか。

学者同士の議論を避けて、「アベ政治を許さない」で大同団結することを優先していることの憲法学上の意味は何なのか。

まず自分の学界内部で、自衛隊が合憲なのか、違憲なのか、徹底的に議論するべきではないのか。その様子を公にすることこそが、学者が社会に対して持っている社会的使命を果たすことなのではないか。

伝統的な憲法学界「通説」は、次のようなものである。

9条1項では自衛権が否定されていないように見えるが、2項が「戦力」と「交戦権」を否定しているため、1項で留保されている自衛権の行使もできなくなる。1項の意味を、2項を読んでから、修正するという奇妙な「ちゃぶ台返し」の解釈論である。

関連拙稿:石破氏の一部憲法学者への絶対忠誠心をいぶかる

これに対して、1項にしたがって2項を解釈する立場は、伝統的に京都大学系の憲法学者や国際政治学者らによって採用されてきた。これは伝統的に「芦田修正説」と呼ばれてきた。「芦田修正」とは、2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という挿入句を入れた憲法改正特別委員会の措置のことを指すが、今日に至るまで主流派の憲法学者たちから蔑みの対象であり続けている。

参照:池田信夫氏(アゴラ)憲法9条2項「芦田修正」の謎

芦田均(1887〜1959年、国立国会図書館サイトより)

なぜ「芦田修正」が邪道なのかというと、2項の真ん中に「句点」があるからだという(!)。「前項の目的を達するため」は、2項の最初の一文である「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」にかかるが、句点「。」によって、「前項の目的を達する」の縛りは終了するという。

そこで2項の2文目の「国の交戦権は、これを認めない。」には「前項の目的を達するため」はかからない。そのため「前項の目的を達するため」ではない「交戦権」の否認によって、1項の自衛権の留保も無効化される、というのである。

「句点」!日本の憲法学通説の正しさを裏付ける根拠は、「句点」!

国家の安全保障政策を、70年以上にわたって「句点」を根拠にして、大きく制約し続けようとしてきたと言うのだから、冗談にもならない。しかし日本では、こんな憲法解釈がはびこる学界「通説」を学ぶことが、司法試験や公務員試験を通じて、法律家や官僚になるための必須要件とされている。

よくぞ「句点が根拠」下で、国家を運営してこれたものである。驚くべき作業だと称賛してもいいが、そのために膨大な量の残業費の無駄遣いや政策の停滞が引き起こされてきた。憲法学界「通説」によってもたらされた壮大な無駄の規模は、計り知れないのである。

私は、繰り返し、以下の憲法解釈の妥当性を主張している。

憲法上の「戦力」概念は、感覚的に解釈されるべきものではない。たとえば、読売巨人「軍」の選手などもしばしば一般人によって「戦力」と表現されている。一般人の言語感覚にそって憲法解釈するならば、プロ野球選手も違憲の存在なのである。だがもちろんそのような感性的な解釈は、法律論ではない。一般人の言語感覚を、憲法学者の言語感覚、と置き換えてみても、事情は変わらない。感性論は、法律論ではない。重要なのは、明確な基準があるかないか、である。

「戦力」の憲法上の意味は、「戦争潜在力(war potential)」であり、この「戦争」概念は、1項で放棄された「国権の発動としての戦争(war as a sovereign right of the nation)」であることは、自明である。「芦田修正」の挿入句なども気にすることなく、ただ素直に1項から自然に2項を読み進めていけばいいのである。

1項で否定されたのは、国際法で違法の「戦争(war)」のことである。そこには自衛権は含まれていない。2項で不保持が宣言されている「戦争潜在力(war potential)」も、1項と綺麗につながっているために、自衛権行使の手段は含まれていない。

憲法学者は「自衛戦争」なる国際法では使われていない造語などを乱発し、「自衛戦争」も戦争だから放棄される、といったお話を広めようとする。しかし「自衛戦争」は日本のガラパゴス憲法学にのみ存在している概念である。そんなものを理由にして国際法上の自衛権を否定するというのは、完全に破綻した議論である。

また句点の後で否認されている「交戦権」は、国際法では存在していない概念である。存在しないものを「認めない」と宣言しても、国際法上の権利で失うものは何もない。「交戦権」否認は、不戦条約体制から逸脱した太平洋戦争中の大日本帝国憲法の「統帥権」概念などを根拠にした大日本帝国特有のイデオロギーの否定である。自衛権の放棄とは何も関係がない。

なぜ1項と2項を論理的に結びつける解釈が、「句点が根拠」論よりも、劣っているとみなされるのか?納得がいかない。

議論が必要ではないだろうか? 国会議員も議論すべきだが、まずは学者が議論すべきなのではないか?

私は各方面で、主流派の憲法学者との議論の場を設定してくれないか、と頼んでいる。ここ数年頼み続けている。理解ある憲法学者の方だけでなく、マスコミ関係者や政治家の方にも頼んでいる。しかし実現していない。主流派の憲法学者を、私との議論の場に連れて来れる腕力のある方が、今の日本にはいないのだ。

それどころか憲法学者は、憲法学者ではない者は憲法を語ってはならない、と主張し続けている。

関連拙稿:長谷部恭男教授の「憲法学者=知的指導者」論に驚嘆する

一部の良心的な憲法学者の方々の中には、次のように私に助言してくれる方もいる。「主流派の憲法学者を批判しても勝ち目がないですよ、彼らはマスコミに重宝されていますから」。

しかし、このまま憲法学「通説」の「句点が根拠」を許し続けていて、日本はやっていけるのか。時代遅れのイデオロギー闘争をやっている場合ではない。

篠田 英朗(しのだ  ひであき)東京外国語大学総合国際学研究院教授
1968年生まれ。専門は国際関係論。早稲田大学卒業後、ロンドン大学で国際関係学Ph.D.取得。広島大学平和科学研究センター准教授などを経て、現職。著書に『ほんとうの憲法』(ちくま新書)『集団的自衛権の思想史』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)など。篠田英朗の研究室

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篠田 英朗
東京外国語大学総合国際学研究院教授

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