文化行政の基準は国民
「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」を巡り騒動が続いている。主要メディアに限らず職業柄「表現の自由」に密接に関係する団体も声名を出している。
例えば日本ペンクラブは河村たかし名古屋市長、菅官房長官の発言を「政治的圧力そのもの」と批判し「行政がやるべきは、作品を通じて創作者と鑑賞者が意思を疎通する機会を確保し、公共の場として育てていくことである」としている。
日本ペンクラブは行政、より正確に言えば文化行政に役割を求めている。文化行政は芸術家の協力を前提にしたものであり芸術家への敬意と正当な対価を忘れてはならない。
しかし行政活動である以上、あくまで国民の利益のために行われるものであり、決して芸術家の利益のために行うものではない。そこを違えてはならない。
もちろん芸術家も国民であるが今回の「あいちトリエンナーレ2019」における芸術家の立ち位置はあくまで「専門家」であり、文化行政で意識する国民と同じではない。医者の意見だけを聞いて医療行政が決定出来ないのと同じである。
憲法で規定されているように公務員は「全体の奉仕者」であり特定の職業従事者の利益のために活動することは憲法違反である。文化行政の基準は芸術家ではなく国民である。こんなこと言わせないでほしい。
文化行政は国民の利益のためにあるから、国民を著しく不快にさせる表現を支援するわけにいかない。もちろん禁止してもならない。
だから今回の騒動で河村たかし名古屋市長が展示物の撤去要請の理由として「日本国民の心を踏みにじる」を挙げたことも必ずしも不当ではない。
(名古屋市HP)報道資料 令和元年8月2日発表 あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について
もちろん表現の自由の観点からすればこうした主張も声高に言うべきではないだろう。しかし文化行政の受益者は国民である。
行政は日本ペンクラブや津田大介氏のために働いているわけではないのである。
主催は「行政」ではなく「実行委員会」
日本ペンクラブのように「行政」を強調する声があるが「あいちトリエンナーレ2019」の主催者はあくまで「あいちトリエンナーレ実行委員会」である。行政が参加しているが行政そのものではない。
行政が直接関与、前面に出ることが望ましくない事業では「実行委員会」という官民混合組織を設置し、行政がその構成員として参加し事業を支援することがある。
今回の騒動を巡る報道では「行政」が強調され、この「実行委員会」が霞んでしまっている。
大村知事が展示中止の判断を下したのは知事の職権ではなく実行委員会会長としての職権である。
実行委員会型組織は柔軟性・機動性が期待される一方、ともすれば責任の所在が曖昧になり緊張感が欠けてしまう。「緩やかな組織」とはどうしてもその危険性がある。
だから組織の運営者の能力が非常に重要になってくるわけだが大村知事は然るべき運営をしていたのだろうか。大村知事は「行政や役所など公的セクターこそ表現の自由を守らなければいけないのではないか。」と述べているが(参照:朝日新聞デジタル)、「表現の不自由展・その後」の展示中止の判断を下したのは大村知事である。
自らが最高の責任者であるイベントで展示中止の判断を下したのだから、その結果責任は問われよう。
しかも今回の展示に対しては激烈な反応が起こることを芸術監督である津田氏は理解していた。津田氏は確信的に展示したのだから大村氏の責任は更に強まる。
そしてその津田氏が就任した「芸術監督」だが、これについても情報を整理する必要がある。
ネット上では2013年の実行委員会規約が確認出来た。
古い情報ではあるが、この規約が大幅に改正されているとは思えない。行政関係者ならばこの規約を「定型文」と思う者がほとんどではないか。
上記の規約では
第9条 実行委員会に、トリエンナーレの学芸業務の最高責任者として芸術監督を置く。
2 芸術監督は、運営会議において選任し、会長が委嘱する。
とされている。
芸術監督は規約に規定された存在であり、決して「通称」の類ではない。然るべき見識が期待されている存在であり「学芸業務の最高責任者」である。
ここで古くても規約をあえて示した理由は、津田氏はあくまで主催者側の人間であることを示したかったからである。
主催者が著しい反響が起きることが予期しながら、むしろ愉快犯的にそれを期待して展示し、その結果、主催者自らの判断で展示中止の判断をしたのだから主催者、特に芸術監督である津田氏の責任は極めて重い。
芸術監督は「権力者」である。
規約だけでは芸術監督の権限がなかなか読み取れないが、新聞報道によれば学芸員の推薦を「ピンとこない。これはまずい」と拒否し自ら作家選びをしたそうだから「芸術監督」は大変な権力者である。
参照:<金曜カフェ>ジャーナリスト・津田大介さん あいち芸術祭 監督として:北海道新聞 どうしん電子版
今回の騒動で展示中止に反発した作家達が声明を出したが、その声明文の中でも「芸術監督」の権力がどの程度のものかが窺える。作家達は次の声明を出した。
ジャーナリストである津田大介芸術監督が2015年に私たちが開催した『表現の不自由展』を見て、あいちトリエンナーレ2019でぜひ『その後』したいという意欲的な呼びかけに共感し、企画・キュレーションを担ってきました。
津田氏の「呼びかけ」があってこそ「表現の不自由展・その後」が成立したのである。
津田氏の視界に入らない作家は「呼びかけ」もされない。大変な権力である。
「あいちトリエンナーレ2019」は数十万単位の来場者が見込まれる国際的イベントだから有名芸術家とのコネクションが重要になってくるのだろう。だから公募形式ではなく「主催者の呼びかけ」という方式が許されたと思われる。
しかし常識的に考えれば「主催者の呼びかけ」は、作品の選定に恣意の存在を疑わせるものである。
だからこそ作品を選ぶ「芸術監督」の芸術面での実績が決定的に重要となるのではないか。
忘れてはならないが「あいちトリエンナーレ2019」では国民の税金が使用されている。だから出展面での公平性が問われるのは当然である。特定の人間だけが利益を得ることは許されない。
だから「表現の自由」云々も良いが、作品の選定の際に恣意があった可能性も議論されなくてはならない。
津田大介という「権力者」によって彼と懇意にある一部の作家集団が国際的イベントへの出展という破格の待遇を受けたというのは少し想像が過ぎようか。
「私物化」批判を免れたいならば
今回の騒動は様々な情報が飛び交っており判然としないものが多い。だから筆者もめったなことは言えないが、実行委員会という「緩い組織」、「芸術監督」という権力者、津田氏の軽率な振る舞いなどを見ても「あいちトリエンナーレ2019」は「津田大介氏による私物化がなされた」という印象が強い。
もちろん今後の情報によっては「私物化」という表現は撤回するつもりである。
だから津田氏も「私物化」批判を免れたいならば「被害者」の肩書を示すのではなく「芸術監督」いや「責任者」の肩書を示して作品の選定基準・経緯を明らかにすべきではないか。
津田氏には様々な肩書があるようだが、まさか不利な状況から逃れるために肩書を使い分けてきたわけではあるまい。
今、津田氏に求められているのは「責任者」として姿勢に他ならない。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員